黒いコートの白い毛
保護犬譲渡センターの犬飼融は、真夏でも黒いコートを着ている。
白い犬の毛がびっしり付いているのに、ポケットの粘着ローラーを決して自分には使わない。見学者が犬を抱いて「かわいい」と言うと、無表情で返す。
「かわいいは責任の代わりにならない」
朝比奈藍は、融を冷たい人だと思っていた。
その日、藍が相談したのは、老犬のユキの譲渡申請だった。希望者は丁寧で、医療費の準備もある。ただ現在は短期賃貸に住み、ペット可の部屋へ移るのは三か月後だ。規定では安定した住居が必要だった。
「三か月待ったら、ユキの体調が落ちるかもしれません」
「だから今日渡す?」
「希望者は毎日来ています」
「好きな回数と、守れる日数は別だ」
融は申請書へ不承認の印を押した。希望者が肩を落とすのを見て、藍は食い下がった。
「規則しか見ないなら、面談の意味がありません」
「規則だけなら、私も犬もいらない」
彼は別の紙を出した。三か月の長期預かり契約。センターが医療判断を持ち、希望者は毎日世話をし、新居の確認後に正式譲渡へ切り替える。すでに管理会社への確認項目と、引っ越し日の通院計画まで書いてあった。
「不承認じゃなく、準備期間……」
「犬に仮の家族は分からない。人間には分かる。だから人間側だけ仮にする」
希望者は泣きながら署名し、ユキはその手を一度だけ舐めた。帰り際、融は三か月分の通院予定を冷蔵庫へ貼るよう念を押し、嬉しさだけで予定を埋めないこと、疲れた日はセンターへ預け直してよいことまで説明した。厳しい言葉は、失敗しても戻れる道を先に作っていた。三週間目、希望者が疲れてユキを一晩預け直した。藍は不安になったが、融は「戻せたなら合格だ」と毛布を受け取る。完璧に抱え込む人より、助けを呼べる人を家族に選んでいた。
最後に肉球印を押す段になり、紙へ白い毛が落ちた。融は初めて粘着ローラーを取り出し、契約書の上だけを慎重に転がした。自分のコートの毛はそのままだ。
「きれい好きだから持っているんじゃないんですか」
「違う。犬の署名を、人間の都合で汚さないためだ」
鮮明な肉球が紙に残る。
融はローラーを藍へ渡した。
「かわいいは責任の代わりにならない。だが、責任を取る人間の手は、二本あった方がいい」