黒胡椒のポテトサラダ
郡司悠馬が同僚の退職を思い出したのは、送別会が終わったあとだった。
忘れていたわけではない。月末の集計が崩れ、数字を合わせているうちに、開始時刻を一時間、二時間と過ぎた。連絡すればよかったのに、「少し遅れます」と送るたび本当に行ける気がして、結局何も送らなかった。
日付が変わるころ、退職する同僚から一件だけメッセージが来た。
今までありがとう。無理しすぎるなよ。
責められない文章ほど、返事が難しかった。その同僚は、悠馬が配属された日に最初の昼食へ誘ってくれた人だった。失敗したときには、報告書の書き方を黙って直してくれた。
駅裏の居酒屋へ入ると、客は悠馬だけだった。温かいポテトサラダを一皿頼んだ。
茹でたてのじゃがいもを木べらで崩す音が、こつ、こつと小さく響く。粗く挽いた黒胡椒の香りが立ち、湯気を含んだじゃがいもの甘い匂いと混ざった。皿は掌に近づけただけで温かく、ところどころ形の残った芋が白く光っている。
口へ運ぶと、柔らかな部分のあとに、硬めの角が歯へ当たった。黒胡椒が遅れて舌を刺す。
「もっと滑らかにもできますけど」
店主が言った。
「このままで」
「混ぜすぎないほうが、残るものもあります」
悠馬はスマートフォンを伏せていた手を離した。
気の利いた長文はいらない。思い出を並べて自分まで送別会へいたことにするより、空けた席を空けたまま認めるほうがいい。送別会へ行けなかった理由を仕事のせいにする必要もない。今夜のうちに、「連絡もしなくてごめん。直接ありがとうを言いたかった」と送ろう。明日の昼休みに電話していいかも聞く。
返事は来ないかもしれない。最後の日を軽く扱った事実は変わらない。もう同じ机で笑うこともない。送別会に空いた一席を、あとから埋めることもできない。それでも、感謝まで欠席したことにはしたくなかった。
悠馬は短い文を送信した。既読はつかなかった。
皿に残った芋の塊を噛むと、中心はまだほのかに温かかった。黒胡椒の刺激はすぐ消えたが、じゃがいもの重い甘さは、返事を待つ口の中に静かに残った。