Mのイニシャル
岳生の祖母を介護し始めたのは、付き合って三か月目だった。
「他人に任せたくない」という彼の優しさに惹かれた。仕事のある岳生に代わり、在宅勤務の私が昼食と入浴を手伝う。結婚前に家族として頼られるのは、うれしかった。
入浴介助の時だけ、岳生は私のスマートフォンを預かった。祖母のタエさんが水音を電話と勘違いするからだという。壁には細かな予定表があり、朝食、薬、洗濯の横に「汐莉」と印刷されていた。よく見ると、私の名前の下だけ紙が二重になっていた。私は仕事の会議を昼休みに集め、友人との約束を断った。岳生は『こんなに向いている人はいない』と褒めた。褒められるたび、疲れを口にすることが祖母への裏切りに思えた。
タエさんは認知症だと聞いていた。けれど、岳生がいない時だけ目をまっすぐ合わせ、「帰りなさい」と言う。私が傷つくと、今度は洗面台の一番下を指した。
引き出しには、未使用の歯ブラシが二本あった。一本には岳生、もう一本には「M」と油性ペンで書かれている。私のイニシャルではない。
その夜、岳生に尋ねると、前の彼女が置いていった物だと認めた。彼女は祖母の介護を嫌がり、逃げたらしい。岳生は「汐莉は違うよね」と私の手を包んだ。
翌日、タエさんは古いスマートフォンを布団の下から出した。充電は切れていたが、写真には別の女性が同じエプロンを着ていた。壁の予定表も同じで、名前だけが「真弥」になっている。最後の動画で、女性は泣きながら言った。
『介護サービスを入れて。もう仕事を辞められない』
画面の外から岳生の声がした。
『家族になる覚悟がないなら、ばあちゃんにそう言って』
タエさんは認知症ではなかった。耳が遠いだけで、岳生が役所にも私にもそう説明していた。外部サービスを断り、恋人を住み込ませれば費用がかからない。
玄関で靴を履く私に、岳生は「祖母を捨てるの?」と聞いた。
洗面台の奥に残された二本目の歯ブラシは、毛先だけが新品より柔らかかった。