NOT FOR SALEの底
城戸槙は珈琲「十一月」で、祖母の部屋の売却同意書を読んでいた。
部屋へ行くたび、槙は祖母の湯のみを同じ向きへ戻し、座布団のずれを直した。けれど水道は止められ、冷蔵庫は空で、時計だけが電池切れの時刻を指している。残すことと生かすことは、同じではなかった。
売却同意書へ署名すれば、部屋はなくなる。けれど署名しない一年間にも、部屋は少しずつ傷んでいた。
祖母が亡くなって一年、誰も住まない部屋の管理費だけを払い続けている。売れば楽になる。それでも、家具も食器もそのまま残った室内を手放すのは、祖母を二度失うように思えた。
不動産会社からは、今日中なら提示額を維持できると連絡が来ていた。槙は同意書を閉じ、黒いカップを両手で包んだ。
それは昔のホテルで使われていたものらしい。側面に薄く金の紋章があり、縁は何度も磨かれて丸くなっている。飲み終えて底を見たとき、英字が現れた。
NOT FOR SALE。
槙は思わず店主を呼び、カップを買えるか尋ねた。店主は値段を考える様子もなく、底の文字を指で一度なぞった。そして空のカップを受け取り、湯で洗い、布で拭き、いつもの棚へ戻した。
売らないから飾るのかと思ったが、棚は客席から近く、次の注文ですぐ手が届く場所だった。ホテルはもうない。けれどカップは、保存箱の中ではなく、別の店で毎日使われている。
槙は祖母の部屋を思い浮かべた。全部を残そうとして、結局一年間、誰もカーテンを開けていない。祖母が使ったものを、時間ごと密閉していたのは自分だった。
会計で店主は、カップ代を伝票へ加えなかった。代わりに珈琲一杯の金額だけを書き、店印を押した。槙がもう一度棚を見ると、黒いカップの金の紋章が照明を受けていた。
槙は不動産会社へ電話をかけた。
「売却を進めてください。ただ、青い卓上ランプだけ、引き取りたいです」
担当者の返事を聞き、同意書の送信欄を押す。
帰り際、店主が黒いカップへ次の湯を満たした。槙は振り返らず、祖母の部屋のカーテンを明日開けに行く予定を入れた。