退職者の署名

 四方津機工の上遠野莉世は、納入先の工場で機械を調整するサービス技師だった。

 決算会議に並んだ案件の中に、六億五千万円の大型プレス機があった。三月三十一日設置完了、顧客の嶺岸工場長が検収署名済み。今期最大の売上である。

「設置は終わっていません」

 莉世が言うと、営業役員は笑った。莉世は三月末にも現場へ行き、養生シートをかぶったままの機械を見ていた。顧客の作業員は「嶺岸さんならもう釣り三昧だ」と笑い、新任工場長の名刺を渡してくれた。

「技師は据付の細部しか見ていない。契約上の検収は別だ」

 スクリーンには、確かに〈嶺岸維久 工場長〉という署名が映っていた。

「嶺岸さんは二月末に退職しています」

 笑いが止まった。

 莉世は顧客から届いた担当者変更通知を出した。三月一日以降の検収権限は、新任の工場長だけにある。通知には顧客の社印が押され、四方津機工の受領印もあった。

「退職前に署名をもらっていたのだろう」

「検収書の日付は三月三十一日です」

 莉世は嶺岸の筆跡も知っていた。作業報告書へ書く彼の字は角ばり、最後の一画が必ず上がる。検収書の署名は丸く整い、名刺の印刷文字をなぞったようだった。

「予定検収として先に署名することはある」

「契約では、稼働試験後の署名しか認められていません」

 莉世は作業記録を開いた。制御盤の交換部品が届いたのは四月四日。稼働試験は四月六日。三月末には、電源さえ入らなかった。

 営業役員は低い声で言った。

「現場記録は後から整えられる」

「署名も、ですか」

 莉世は顧客の正式な照会回答を机に置いた。嶺岸本人は二月二十八日以降、会社印も書類も使用していない。問題の検収書を見たこともない、と直筆で回答していた。

 社長は署名の線を見つめた。流れるような筆跡は、むしろ準備されすぎていた。

「誰が書いた」

 誰も答えなかった。

 監査役は決算承認書の六億五千万円を囲み、その横に「根拠無効」と記した。

「署名者が会社を去った日に、この売上も今期から外れる。決裁停止」