「ただいま」を聞く席

家を出た者がいる家庭では、食卓に一脚多く椅子を置く。

余分な椅子は、最初に帰ってこなくなった者の席である。その者が帰宅した夜は元の席へ座らず、食事の前に椅子へ「ただいま」と言う。家族の誰かが「おかえり」と返すまで箸を取ってはいけない。翌朝また家を出る者は、自分の名前を椅子へ残す。

蛭薙が八年ぶりに実家へ入ると、椅子は五脚あった。

父と母しか住んでいない。父の背は小さくなり、母は蛭薙が知らない補聴器をつけていた。家だけが、廊下のきしむ位置も、壁の落書きも、八年前の続きを同じ場所に残していた。食卓は四人用で、余分な一脚だけ背が低い。蛭薙が高校まで使っていた椅子だった。座面の裏に貼ったバンドのステッカーも残っている。

彼は家を売る書類へ署名するため帰ってきた。父は施設へ入り、母は姉の家へ移る。明日には不動産会社が鍵を受け取る。家族が全員いなくなるのに、母は四人分の煮物と五人分の箸を並べた。余分な椅子の前にだけ、蛭薙が子供のころ使った欠けた茶碗があり、湯気のない白飯が山の形で盛られていた。

蛭薙は規則どおり、立ったまま椅子へ言った。

「ただいま」

父は新聞を見ていた。母は鍋の蓋を持ったまま動かなかった。八年前、音楽の仕事をすると言って出た夜、父は「帰ってくるな」と言った。蛭薙もそれでいいと思った。成功すれば帰る理由ができるはずだった。成功しないまま、連絡だけが減った。

食卓の湯気が薄くなった。

「おかえり」

言ったのは、余分な椅子だった。木の背がきしみ、蛭薙の声に似た低い音がした。

父も母も驚かない。母は「これで食べられるね」と箸を渡した。

三人は家の売却について話した。ピアノの処分、仏壇の行き先、庭の柿の木。蛭薙はこの家を欲しいとは言わなかった。払える金も、戻る仕事もない。それでも、話が一つ決まるたびに、余分な椅子のステッカーが少しずつ新しくなった。

食後、母が尋ねた。

「明日の朝、また出る人は?」

蛭薙は自分の名前を椅子の裏へ書いた。

翌朝、玄関には売却用の鍵が三本並んでいた。その横に、見たことのない四本目がある。歯の形は取り壊し前の家の輪郭に似ており、頭の丸い穴には、昨夜の煮物の人参が一片、乾かずにはまっていた。