「私」から始める
狭間葉月が願いの店で口にした願いは、三つとも断られた。
「息子の病気を治してください」
「主語が違います」
「悠真が苦しまないように」
「主語が違います」
「この子に、普通の暮らしを」
店主は同じ言葉を繰り返した。
「願いは『私』から始めてください」
葉月は腹を立てた。
病気なのは自分ではない。十二歳の悠真は長い治療を続けている。髪が抜け、友達と同じ学校行事に出られず、それでも母親の前では「平気」と言う。
葉月の願いは全部、息子のためだった。
「私は、息子の病気を治してほしい」
「それは息子の願いです」
「屁理屈です」
葉月は立ち上がった。
店を出る前、店主が言った。
「あなた自身には、何もありませんか」
何もない、と答えようとした。
けれど声が出なかった。
病室で泣かないこと。医師の説明を聞き漏らさないこと。食べられるものを探し、明るい話をし、怖くない顔をすること。葉月は一年半、自分の感情を全部、廊下のごみ箱へ捨てるようにしてきた。
悠真は最近、葉月の前で笑わなくなった。笑えば母が安心し、安心した母を見ると自分も安心する。その役目を、十二歳の子に渡していたのかもしれない。
「私は……」
言葉が震えた。
「私は、息子の前で、ちゃんと怖がりたい」
店主は黙っている。
「泣いたら困らせると思ってました。でも私が平気なふりをするから、あの子も平気なふりをしてる。私は、母親じゃなくなるくらい泣いて、それでもそばにいたい」
店主は小さくうなずいた。
病院へ戻ると、悠真は窓の外を見ていた。
「遅かったね」
葉月はいつものように笑おうとした。
その瞬間、涙が出た。
一滴ではなかった。息が詰まり、肩が震え、顔がぐしゃぐしゃになった。
「ごめん。怖い。お母さん、すごく怖い」
悠真は驚き、やがて唇を噛んだ。
「僕も」
二人で泣いた。
看護師がそっと箱ティッシュを置き、何も言わずに出ていった。
泣き終わると、悠真が久しぶりに笑った。
「お母さん、鼻、真っ赤」
「悠真も」
病気は治っていない。明日の治療もある。
それでも葉月は初めて、息子と同じ場所に立てた気がした。
願いは「私」から始まり、二人のところへ届いた。