いぶりがっこの白

オーディションに落ちた夜、ギターケースを背負って歩くのが恥ずかしかった。

二次審査まで残り、最後の一曲でテンポを走った。審査員は「音が前へ行きすぎる」と言った。帰りの電車で演奏動画を消そうとしたが、指が動かなかった。残せば未練に見え、消せば失敗までなかったことにするようだった。一次審査を通ったとき、友人たちは自分のことのように喜んだ。その通知まで嘘になる気がして、画面を閉じた。

路地の居酒屋へ初めて入ると、奥に無口な常連がいた。帽子を目深にかぶり、カウンターを人差し指で、四つずつ静かに叩いている。曲ではなく、時計のように一定だった。

僕は、いぶりがっこクリームチーズを頼んだ。燻した大根の煙たい匂いが、白いチーズの乳の香りへ重なる。噛むと、ぱりっという乾いた音が頭の内側へ響き、そのあと滑らかな塩気が舌に広がった。温かい料理ではないのに、燻香だけが焚き火のようだった。

常連の指は、相変わらず四つずつ動く。僕が無意識に足で速い拍を刻むと、その人は一度だけこちらを見た。咎めず、合わせず、自分の速さを変えなかった。

「匂い、残りますね」

僕が言うと、店主は皿を拭きながら答えた。

「明日もケースに少し残るよ」

演奏も同じかもしれない。落ちた事実は残る。走ったテンポも、録画にはそのまま残る。だから消すのではなく、使うことにした。

僕は動画を非公開のまま保存し、明日の練習メニューへ『同じ曲を八割の速さで一回だけ録る』と入れた。何時間も弾かない。審査員へ言い返すためでもない。うまく弾けた箇所まで嫌いにならないために、まず、どこで前へ出たのかを、自分で聞く。

次の応募先はまだ決められない。音楽を仕事にできるかも分からない。ただ、ケースを押し入れへしまうのは明日でなくてもいい。

最後の一切れを噛むと、燻した香りが鼻へ抜け、チーズの白い柔らかさがあとから追いついた。奥の常連の四拍は止まり、静けさの中にも、同じ速さだけが耳に残っていた。