お辞儀する影
映像制作者の間で共有されるロケ地メモには、地下水路脇の千代折トンネルについて短い注意がある。
《正面の影がお辞儀しても、お辞儀を返してはいけない》
伊佐見央介は二十九歳のフリー映像編集者だった。企業向け怪談動画の素材を撮るため、照明一灯と三脚を持ち込んだ。
トンネル中央でカメラを固定し、自分が歩く姿を撮る。前方の壁には央介の影が長く伸びた。
彼が止まると影も止まった。ところが、央介が直立したままなのに、影だけが腰を折った。深々としたお辞儀だった。
注意書きを思い出し、無視して通り過ぎようとする。だが、企業案件で身についた癖は体より速かった。央介は反射的に一度だけ頭を下げた。
影は頭を上げなかった。
撮影を切り上げて外へ出るまで、背後の壁を擦るような音が続いた。帰宅後に映像を確認すると、央介が礼をした瞬間から、画面内の人物が二人になっていた。一人は歩いて出口へ向かい、もう一人は影の中に残り、ずっと頭を下げている。
央介はその部分を削除した。
翌日、オンライン採用面接の編集案件があり、会議アプリへ接続した。自動背景処理が誤作動し、央介の輪郭の横に「人物2」の枠が出る。画面には誰も見えない。
先方が入室すると、央介は挨拶した。
「本日はよろしくお願いいたします」
会議字幕が二行表示された。
伊佐見央介:本日はよろしくお願いいたします
伊佐見央介の影:こちらこそ
先方は冗談だと思って笑った。央介が設定を開いても、二人目の字幕を消す項目はない。
面接が終わり、全員が退出したあとも、参加者数は《2》のままだった。カメラを切ると《1》になり、再び点けると《2》へ戻る。
深夜、ノートパソコンを閉じた状態で会議開始音が鳴った。
《伊佐見央介の影が画面を共有しています》
スマートフォンから会議へ入ると、共有画面には千代折トンネルの壁が映っていた。頭を下げた影がゆっくり起き上がる。
字幕欄に、日常の挨拶が打ち込まれた。
《お先に失礼します》
央介の部屋から、彼の影だけが退出した。