がんもどきは丸くなくていい
松永冬馬は、明日から海沿いの町にある小さな酒蔵で働く。東京のデータ分析会社を辞め、製造記録と出荷計画を整える仕事に移る。
転職先を見つけたのは冬馬だが、迷っているのは同棲中の恋人だった。町へ一緒に移るなら、恋人も今の職場を辞めなければならない。遠距離にするなら、家賃が二重になる。冬馬は「何とかなる」と繰り返したが、何がどうなるのかは一度も計算していなかった。
部屋の内見もせず荷造りを始めた冬馬を見て、恋人は自分の分の段ボールを一つも作らなかった。その事実を、冬馬は忙しいからだと思い込もうとした。
恋人は、転職に反対しているわけではない。ただ『あなたは決めてから相談する』と言った。冬馬は、採用通知を見せれば一緒に喜んでくれると思っていた。その沈黙を、都会を離れたくないだけだと片づけてきた。
明日の入社後、寮の説明を受ける。恋人には「広いらしい」と伝えた。実際には、求人票の写真を見ただけだった。
居酒屋「糀坂」の店主は、豆腐へ人参、ひじき、銀杏を混ぜ、がんもどきを揚げていた。油の中で丸い生地がゆっくり回り、細かな泡が表面を包む。大豆の甘い匂いと揚げ油の香りが広がり、割ると中から野菜の色と白い湯気が現れた。
「形、そろってないですね」
「手で作るとこんなもんだ」
店主は少し平たい一つを冬馬の前へ置いた。
冬馬は新生活の不安を、前向きな言葉で覆ってきた。酒蔵の仕事は面白そうだ。町もきれいだ。だが、恋人が知りたいのは景色ではなく、勤務時間と住居費と、いつまで待てば判断できるかだった。
明日、入社式が終わったら、人事へ三つ質問することにした。繁忙期の残業、寮へ二人で住める条件、試用期間中の休暇。聞きづらくても数字で持ち帰り、その夜に二人で決める。必ず来てほしいとは言わない。遠距離になっても関係が続くとも断言しない。
転職が正解かどうかは、まだ形にならない。恋人が町へ来ない可能性もある。冬馬は不格好ながんもどきを噛んだ。外側は香ばしく、中には豆腐の温度と銀杏のほろ苦さが別々に残っていた。