ご祝儀を返す日
母が差し出したご祝儀袋は、まだ結婚式を挙げる前なのに厚かった。
「会場の申込金。これで押さえなさい」
ホテルのラウンジで、明日香は袋を開かなかった。金色の水引の下に、母の字で二人の名前が並んでいる。婚姻届に書く予定の順番まで、母が決めたように見えた。
「式はしないよ」
「今はそう思っていても、あとで恥をかくのはあなたよ」
「写真だけ撮る」
「親戚に何て説明するの。ドレスは袖のあるもの、招待客は最低でも八十人。相手のご両親にも私から――」
「電話しないで」
母は紅茶のカップを置いた。受け皿が硬く鳴る。
「お金を出す親の意見くらい聞きなさい」
「だから返す」
明日香は鞄から同じ大きさの封筒を出した。先週、母に振り込まれた申込金と同額を入れてある。ご祝儀袋ほど華やかではない、銀行の白い封筒だった。
「何これ」
「振り込みじゃ受け取らないと思って」
「子どもが意地を張ってどうするの」
「子どもじゃなくて、結婚する本人」
母は白い封筒を押し返した。
「親を式に呼ばないつもり?」
「写真を撮る日に来てほしい。来るなら、服も時間も口を出さないで」
「そんな条件を親に付けるの?」
「お金に条件を付けたのは、お母さんが先だよ」
ラウンジではピアノの自動演奏が流れていた。明るい曲なのに、同じ旋律が何度も戻ってくる。明日香は金色のご祝儀袋を母の前へ置き直した。
「これを受け取ったら、私たちの一日じゃなくなる」
「親孝行くらい」
「会うことはできる。従うことはしない」
母はしばらく、二つの封筒を見比べていた。やがて金色のほうを自分の鞄へ戻し、白い封筒だけを残した。
「これは?」
「私のお金」
「だったら自分で持っていなさい」
明日香は白い封筒を受け取った。母が完全に納得したわけではない。唇は固く、紅茶にはもう手を付けなかった。
「写真の日、何色を着ればいいの」
「好きな色で」
「黒はだめでしょう」
「黒でもいい」
「あなたの隣で?」
「隣に立つなら」
母は窓の外を見た。街路樹の葉が、ガラス越しに揺れている。
「日にちだけ、教えなさい」
「決まったら連絡する」
明日香は白い封筒を鞄へしまった。金額は同じなのに、戻ってきたお金には、八十人分の席も、袖の長さも、親戚への説明も付いていなかった。
会計はそれぞれ払った。
店を出るとき、母は一歩先を歩いた。明日香は追いつかず、同じ方向へ、自分の速さで歩いた。