せせりの黒胡椒焼き
店主が炭を灰で覆い始めたころ、作業服姿の若い客が入ってきた。時計は閉店を一分過ぎていた。
「焼けるもの、まだありますか」
「せせりなら、炭が生きてる」
客は何度も頭を下げ、カウンターの端に座った。
鶏のせせりが網に載ると、脂が炭へ落ちて、ぱちっと火が跳ねた。粗く挽いた黒胡椒の香りが鼻を刺し、焼けた皮から細い煙が上がる。店主が箸で返すたび、肉はきゅっと縮んだ。
客は明日から、工場の検査工程へ異動する。製造ラインで三年働き、ようやく慣れたところだった。新しい部署では、百分の一ミリの傷を見つけなければならない。今日の引き継ぎで測定器を触ったが、数字の意味を半分も理解できなかった。周囲は「若いからすぐ覚える」と笑った。その言葉が、期待ではなく期限のように聞こえた。異動通知の紙は、折り目だけが何度も白くなっていた。
皿のせせりを噛むと、思った以上に弾力があり、すぐには切れなかった。黒胡椒が舌の端で辛い。
「固いですね」
客が言うと、店主は炭へもう一度灰をかぶせた。
「噛むほど出ます」
肉のことだけだった。
二度、三度と噛むうちに、脂の甘さが広がった。焦げた端は香ばしく、中心にはまだ熱い肉汁が残っている。見た目の小ささに反して、一切れを飲み込むまで時間がかかった。
客はスマートフォンの連絡先を開いた。今日、測定器を説明してくれた年配の作業員の名前がある。明日の始業前に十分だけ時間をもらえないか、メッセージを作った。
《最初の検査を一緒に見せてください。分かったふりをしたくありません》
送信予約は朝七時四十分。断られるかもしれない。異動が向いていないと判断されるかもしれない。数字への苦手意識も、一晩では消えない。それでも、若いから覚えられるという言葉に隠れるより、自分から一回目を長く噛むことにした。
最後の一切れには黒胡椒が多くついていた。辛さに目を細めると、そのあとから鶏の脂がゆっくり甘くなり、閉店後の静かな口の中に温度だけが残った。