まだ決めていない場所

深町灯里が青磁写真館へ持ってきたのは、古い店先を写した台紙写真だった。若い母が、まだ看板のない空き店舗の前に立っている。

写真の右側には、何も写っていない壁が三センチほど残されていた。母は二十代のころ、小さな焼き菓子店を開こうとしていたらしい。結局、資金が足りずに諦め、別の仕事へ就いた。写真だけが、計画の途中で止まった時間を残していた。

灯里も今、店を開こうとしている。ただし、自分の名前で始めるか、出資を申し出た会社の系列店になるか決められずにいた。系列に入れば設備も広告も用意される。代わりに、店名と商品は先方が決める。契約書への返事は今夜までだった。

台紙が傷んでいるため、標準サイズへ切り直せば安く済むと聞き、灯里は空白部分を落とすつもりで来た。

店主は金属の定規を写真へ当てた。母の姿だけを残す線を引けば、既製の額に収まる。けれど刃を入れる前に、右側の壁へ斜めの光を当てた。薄い鉛筆の跡が浮かんだ。

〈ここに店の名前〉

母の字だった。三センチは失敗の余りではなく、まだ決めていなかった看板の場所だった。

店主は標準額の価格札を裏返し、注文票へ特注台紙の寸法を書いた。空白を残すぶん少し高くなる。言葉で勧めず、切った場合と残した場合の金額を二段に並べ、灯里へ鉛筆を渡した。

灯里は高いほうへ丸をつけた。

「三センチ、残してください」

店主は写真の端を補強し、母と空白が同じ幅の台紙に呼吸できるよう収めた。会計では大きめの封筒を選び、口を折らず、写真が曲がらないまま持ち帰れるよう持ち手をつけた。

灯里はカウンターの端で契約書を開いた。系列店の名前は、もう印刷されている。署名欄だけが空いていた。

母ができなかったことを代わりに果たしたいわけではない。失敗まで受け継ぐ必要もない。ただ、まだ決めていない場所を、安く収めるために切り落としたくなかった。

灯里は契約を断るメールを送り、別に保存していた小さな物件の内見予約を確定した。看板の名前は、まだ決めなかった。

持ち帰る写真の右端にも、これからの予定にも、三センチぶんの余白が残った。