アザラシスープの夜便
港町のタクシー運転手、千代倉環生は、午前零時を過ぎると「夜潮スープ」へ寄る。
屋台の主人はアザラシのしお。人間の料理人が鍋を見て、しおが客の話を聞く。椅子は三つしかなく、しお自身は大きな氷入りのたらいへ腹をつけている。
「本日の走行距離は?」
「二百十八キロ」
「よく泳ぎました」
「走ったんです」
「陸の話は難しい」
その夜、環生は何も注文せず、椅子へ座った。
娘が就職で家を出してから、帰宅を急がなくなった。部屋へ戻っても灯りは一つ、冷蔵庫の音だけ。客を無事に送り届けるほど、自分だけ行き先を失った気がした。
「空腹では?」
「よく分からない」
しおは人間の料理人へ前足を二度打った。
「潮のポトフ、一杯」
「頼んでない」
「到着した人には温かいものが出ます」
鍋には浅蜊、じゃがいも、玉葱、白い豆が入っていた。蓋を開けると、海とバターの香りが湯気になって上がる。
環生が匙を入れると、じゃがいもは角を残しながら柔らかく崩れた。
「娘さんは?」
「元気。毎日メッセージは来る」
「なら、いなくなったのではない」
「家にはいない」
「海豹の子も、泳げば遠くへ行きます」
「寂しくない?」
「寂しい。だから戻ってきたとき、鼻で分かる」
環生は浅蜊を一つ食べた。塩気のあとに、玉葱の甘さが残る。
「今日、娘さんへ送った言葉は?」
「気をつけろ、と」
「ほかには?」
「ない」
「陸の父親は、語彙が少ない」
しおは呆れたように髭を震わせた。
環生は携帯を開いた。
〈今日は港で浅蜊のスープ。そっちは何食べた〉
すぐに写真が返ってきた。娘が作った少し焦げた炒飯だった。
〈今度作る。帰ったら食べて〉
短い文なのに、部屋へ帰る道が一本できた気がした。
「本日も一名、送り届けました」
しおが前足をぱちんと鳴らす。
「誰を?」
「あなたを、ここへ」
「まだ家じゃない」
「一杯ごとに近づけばよい」
屋台を出ると、潮風は冷たかった。けれど腹の中には、じゃがいもとバターの熱が残っている。
環生はいつもより少し早く帰宅し、玄関の灯りをつけた。コートには海の匂い、指にはスープ椀の温度。静かな部屋は相変わらずだったが、今夜は娘から届いた炒飯の写真が、食卓の小さな窓のように明るかった。