エスプレッソは謝らない

平良咲希は、同僚へ贈る菓子折りの紙袋を足元へ隠し、カフェ〈直線〉でカプチーノを頼んだ。

バリスタの十和田梓は、皺一つない白いシャツを着ている。抽出前、ポルタフィルターを台へ三度打ちつけるのが癖だった。

「薄めても、一杯です」

咲希は仕事の相談だと言った。

会議で、後輩の丹生が出した販売企画を部長が咲希の案だと勘違いした。咲希はその場で訂正できず、企画責任者に指名された。あとから言おうと思ったが、部長は役員へ報告し、咲希の評価面談にも成果として記載した。

「丹生さんに、うまく謝る方法はありませんか。できれば大ごとにせず」

一度目の音。梓がポルタフィルターを打つ。

「事実」

二度目。

「謝罪」

三度目。

「返却」

「それだけですか」

「菓子折りで第四項目を作らないでください」

梓は咲希の鞄からのぞく企画書を指した。表紙の隅に、『丹生案を整理』と咲希自身の字が残っている。秘密を見抜くというより、見えているものから逃げるのを許さない人だった。

「私は盗んだつもりじゃありません」

「エスプレッソは謝りません。こぼしたカップも謝らない。意図がない物に責任はないからです」

「私にはある、と」

「黙る選択をした分だけ」

梓はカプチーノをやめ、短いエスプレッソを一杯置いた。砂糖もミルクもない。

「『誤解させてしまった』は禁止です。誰が何をしたか消えるので」

レシートの裏へ、梓は三行だけ書いた。

『会議で私の案だと誤解されたとき、訂正しませんでした。あなたの案です。部長と役員へ私から訂正し、責任者の扱いも戻します。』

咲希は読み上げ、最後の一文で声が小さくなった。責任者を外れれば、昇進は遠のくかもしれない。

梓は黙ってエスプレッソをもう一杯抽出した。今度は丹生がいつも頼む、蜂蜜入りのラテに仕上げる。

「これを渡して謝ればいいですか」

「謝ったあと、二人で飲むなら」

「先に渡して空気をやわらげるのは?」

「薄めても、一杯です」

咲希は菓子折りを店に預け、会社へ戻ることにした。甘いものを盾にせず、三行をそのまま伝えるために。

扉を開ける前、梓が白いシャツの袖をまくった。手首には、珈琲色の小さな染みがあった。完璧に白いと思っていた服は、見えない場所だけ汚れている。

「その染み、落ちないんですか」

「落としません。三度目を忘れないためです」

梓は一度、二度と台を打ち、三度目は打たずにラテを咲希へ差し出した。

「最後の一打は、丹生さんに返してから」

咲希は二杯を持ち、今度こそ会社へ向かった。