オレンジジュースの海

柚原千紘がグラスを叩くと、船内ホールに南国のリズムが広がった。

沈没した観光フェリーを保存した海事博物館。その就航曲を、事故から十五年目の夜に一度だけ演奏する。展示のため船内は乾き、磨かれ、海の匂いさえ消されていた。マリンバと口笛、氷の鳴る音でできた明るい旅の歌だ。

事故で千紘の兄は死んだ。船会社は、急な高波で下層客室へ浸水し、乗客は眠ったまま逃げ遅れたと説明した。遺族へ返された腕時計は、全員ほぼ同じ時刻で止まっていた。千紘だけが、その揃い方を不自然だと思い続けていた。

イントロで録音された船内放送が笑う。

「揺れても平気」

Aメロのたび、舞台のオレンジジュースが小さく震えた。波ではない。低周波が一定の間隔で鳴っている。千紘がマリンバの低音を抜くと、金属を叩く音が現れた。

三〇二。三〇四。三〇六。

客室番号の順だった。事故後、兄の遺品から見つかったメモにも同じ数字がある。彼は乗客ではなく船内ピアニストで、浸水を知らせるため廊下を走っていた。

サビで博物館の案内員が手を振る。

「揺れても平気」

保存船の照明が青く変わり、当夜の船内図が床へ映る。下層客室の防火扉は、船体が傾く前にロックされていた。乗客を上甲板へ出せば混乱し、会社の過積載が露見する。船長は「軽い揺れ」と放送し、客室待機を命じた。

グラスの振動は、閉じ込められた乗客が配管を叩いた記録だった。船の振動計がそれを保存し、就航曲の伴奏データへ自動変換していた。

最後の一音の直前、兄のピアノが聞こえる。明るい曲を高速で弾き、客に異常を知らせようとしている。その上へ船長の声が重なる。

〈演奏を続けろ。安心するよう歌え〉

千紘は終止和音を弾かず、三〇二、三〇四、三〇六の音を順に鳴らした。保存船の該当扉が開き、内側に刻まれた多数の爪痕が照らされた。

「揺れても平気」

旅人を安心させる優しい歌詞ではない。沈み始めた船で、死者を部屋に留めるため繰り返された嘘だった。