カップの底の星

斑鳩麦は、喫茶「紙飛行機」のカウンターで宿題をしていた。

母の妹が店主なので、放課後はいつもここにいる。九時の閉店まで残るのは、父が迎えに来る日だけだった。

その夜、父は来なかった。

八時五十分に《会議が長引いてる》と届き、九時十分に《先に帰ってて》と届いた。

麦は返事をせず、冷めたココアを飲み干した。

カップの底に、小さな星が光っていた。

金平糖より小さく、釉薬の下に閉じ込められたように瞬いている。

「また増えた」

叔母が言った。

棚のいちばん上には、同じ青いカップが三つ並んでいた。運動会、授業参観、誕生日。父が「必ず行く」と言った日の夜、どのカップにも一つずつ星が残った。

洗っても消えないので、叔母は客に出さず、麦の星座と呼んでいる。

「今日は何て約束したの」

「発表会の練習、見るって」

麦はリコーダーを鞄から出した。

明日の音楽会で吹く曲だった。父は本番にも来られないので、せめて今夜聞くと言っていた。

叔母は椅子を戻す手を止めた。

「私が聞こうか」

「いい。おばちゃんは約束してないもん」

閉店後の店は、音が遠くなる。

麦はカップの星を指でこすった。指先は光らない。

父の仕事が忙しいことは知っている。自分のために働いているとも聞いた。だから怒るのはわがままだと思っていた。

けれど星は、麦が我慢するたび、勝手に残った。

入口の扉が乱暴に開いた。

父が息を切らして立っていた。ネクタイは曲がり、片方の靴紐がほどけている。

「間に合った?」

「閉店した」

「ごめん。今度こそ――」

「約束しないで」

父の口が止まった。

麦はリコーダーを握った。

「来られないかもしれないなら、来るって言わないで。星が増えるから」

父はカップの底を見た。何が見えたのか、しばらく黙っていた。

やがて、カウンターの前に正座した。

「じゃあ、今できることを頼んでもいい?」

「なに」

「一曲、聞かせてください」

麦は椅子から降り、店の真ん中に立った。

最初の音は裏返った。父は笑わなかった。

二度目は指を間違えた。それでも最後まで吹いた。

曲が終わると、父は両手が痛くなるほど拍手した。

帰り道、父は「明日の本番、行けたら行く」と言った。

麦は、その言い方なら嫌いではなかった。

二人は手をつなぎ、閉店後の商店街を歩いた。

翌朝、叔母が四つの青いカップを洗うと、どの星も底に残っていた。

けれどいちばん新しい星だけは、昨日より少し明るかった。

約束ではなく、思い出になった光だった。