カナリアの生姜プリン
片瀬梨江は、昔の婚約者が作った生姜プリンを、別れてから一度も食べていなかった。
航生は音楽の勉強で外国へ行くことを決め、梨江は待たないと答えた。彼が夢を選んだことより、「一緒に来て」と言われなかったことが悲しかった。
二人が通った喫茶店には、今も黄色いカナリアのひよりがいる。店主によれば、航生の口笛を少しだけ覚えているらしい。
ある雨の日、梨江は店主から古いレシピカードを渡された。
〈梨江用。牛乳は沸かさない。生姜汁は最後。熱すぎると固まらない〉
裏には、〈甘さ控えめ。待つのが苦手だから小さい器で〉とある。
「随分、分かっていたんですね」
梨江が言うと、店主は紅茶を注ぎながら答えた。
「分かることと、同じ道を選べることは別だからね」
家へ戻り、梨江は牛乳を温めた。
最初は温度を上げすぎ、ただの甘い生姜ミルクになった。二度目は怖がって冷たすぎた。三度目、鍋肌に小さな泡が出る直前で火を止め、生姜汁を入れた器へ静かに注いだ。
混ぜずに待つ。
昔の梨江なら、三十秒で匙を入れただろう。けれど窓辺にひよりの口笛を録音した音声を流し、一曲ぶん待った。
表面へ匙を置くと、薄い膜がふるりと揺れた。口にすれば、なめらかな甘さの後ろから生姜が温かく刺す。航生の味だった。
梨江はずっと、自分が選ばれなかったと思っていた。けれど彼は、梨江を知ったまま、自分の道も選んだのだ。許すというより、やっと二つを別々に考えられた。
梨江はレシピカードの写真を送り、〈今度は固まった〉とだけ書いた。
返事は、しばらくしてから届いた。
〈僕の方は、まだ時々失敗する〉
梨江は笑い、続きを送らなかった。
器の底には生姜の香りが濃く残っていた。雨粒が窓を叩き、携帯から流れるカナリアの少し外れた口笛が、冷めかけた牛乳の甘さと一緒に部屋を満たしていた。
レシピカードは店主へ返し、梨江は自分の帳面へ写した。最後に〈急いでいる日は作らない〉と一行加える。待つことを選ばなかった二人にも、待たなければ生まれない味があった。その違いを、今は悲しまずに眺められた。