クリーニング店の傘
雨の夕方、クリーニング店の傘立てには一本だけ高級そうな傘が残っていた。
店員の惟道は、閉店時刻を過ぎても片づけずに待った。黒い布地、木の持ち手。朝、紳士服を受け取りに来た女性が置き忘れたものだ。
電話番号は預かり票にあったが、何度かけても繋がらない。
外では雨脚が強まり、商店街の看板が濡れて光っている。惟道はシャッターを半分下ろし、傘を内側へ入れた。
そのとき、息を切らした女性が走ってきた。髪も肩も濡れている。
「傘、ありますか」
惟道が差し出すと、女性は安堵したあと、少し恥ずかしそうに笑った。
「夫のなんです。今日が命日で、お墓へ持っていこうと思って」
夫は雨の日でもこの傘を使わず、濡れるのを嫌っていたという。だから新しいまま残った。
「結局、私がずぶ濡れですね」
店の奥にあったタオルを渡す。乾燥機から出したばかりで、まだ温かい。洗いたての綿の匂いがした。
女性は軒下で傘を開いた。黒い布へ雨粒が当たり、弾かれる。使われなかった年月を一度に埋めるような音だった。
翌週、女性はタオルを洗って返しに来た。菓子折りまで持っている。
「傘、どうでした」
「思ったより重かった。でも、二人で入るには広かったです」
誰と入ったのか、惟道は訊かなかった。
閉店後、返されたタオルを棚へ置く。柔軟剤の香りが店のものとは違った。外はまた小雨で、空の傘立ての底に、先週の雨水が一滴だけ残っていた。
女性が帰ったあと、惟道は菓子を一つ食べた。薄い最中の中に柚子餡が入り、口の中でほどけた。黒い傘の雨音とは違う、乾いた皮の音がした。以来、忘れ傘には日付を書いた札をつけるようになった。傘立てには持ち主を待つ時間が並ぶ。雨の夜、乾燥機の扉を開けるたび温かなタオルの匂いが立ち、店の外から持ち込まれた冷気をゆっくり押し戻した。
惟道はその一滴を布で吸い取り、入口の灯りを消した。暗い店で機械の余熱だけが残る。タオルの棚から、柚子餡に似たかすかな甘さが漂った。