ゼロ円の封筒
楢崎温人会計捜査官は、三百枚目の一万円札を数え終えた。
押収額は三百万円。だが、目の前の札は一枚も捜査用の記番号と一致しない。贈収賄の現行犯で押さえたはずの金が、ただの現金へ替わっていた。
「記番号表の転記ミスだ」
鷲尾伯警務部長が言った。
「封筒の金額は合っている。報告書には三百万円とだけ書け」
事件では、建設会社から飯綱壮平巡査部長へ賄賂が渡ったとされている。飯綱は、封筒を上司へ運んだだけだと供述した。受渡しの直後、捜査員が踏み込み、飯綱の机から封筒を押収した。鷲尾は『末端の単独犯』として会見を準備している。
温人は封筒を裏返した。押収写真の封筒には、右下に赤いインクのにじみがあった。今の封筒にはない。封緘テープも、採取時は縦、現在は横に貼られている。
「封筒ごと替わっています」
「保管係の不注意だ」
「中身の記番号も全部違う。不注意では三百枚替わりません」
鷲尾は会計室の扉を閉めた。
「飯綱は金を受け取った。そこは変わらない」
「誰へ渡す予定だったかが変わります」
「組織には切る場所が必要だ」
温人は机上の紫外線灯を点けた。捜査用の札には、目に見えない管理印が押されている。今の三百万円には一つもない。代わりに、封筒の内側から一本の短い毛髪が出た。鷲尾が公務で使う灰色のフェルト帽と同じ色だった。
それだけでは犯人を決められない。だが、金がすり替わった事実は決められる。保管履歴には、押収翌朝、鷲尾の秘書室へ二十七分間だけ持ち出された記録があった。理由欄は空白だった。
「この記番号表を無効にすれば、特別捜査班の半年が消える」
「消えるのは捜査ではなく、作った結論です」
「君も班の一員だ。自分の経歴をゼロにする気か」
温人は空の受領欄を見た。正しい三百万円がなければ、この封筒の証拠価値はゼロだ。額面だけ合わせた札で、誰かの罪と誰かの免罪を買うことはできない。
彼は計数表に大きく赤字で『一致〇枚』と記入した。押収写真、記番号照合結果、持出履歴を添え、証拠同一性喪失の報告書へ電子署名する。
鷲尾の目の前で、封筒に『鑑定停止』の封印を貼り直した。