マイナス八十度

牧野深雪は研究室を辞め、科学館の解説員になる。

鷹司都和はその転職を、遠回りだと思っていた。博士号まで取り、論文を三本出し、あと二年踏ん張れば常勤の公募に届くかもしれない。深雪は「かもしれないを冷凍保存して、もう七年」と笑った。

都和には、その笑いが敗北をごまかしているように聞こえた。深雪には、都和の励ましが自分の人生を研究費の延長として扱うように聞こえた。

退職前夜、二人は細胞試料の引き継ぎ表を作っていた。午前零時すぎ、マイナス八十度の冷凍庫から警報が鳴った。温度表示はマイナス六十八度。扉の密閉不良らしい。

主任教授へ電話しても出ない。予備の冷凍庫は満杯で、移すなら古い試料を整理しなければならない。

「私は明日、もう所属じゃない」

深雪は言った。都和は腹が立った。辞める選択をした人に、最後まで責任を求める自分にも腹が立った。

「帰っていいよ」

「帰るとは言ってない」

二人は防寒手袋を二組出した。都和が試料番号を読み、深雪が保存価値を引き継ぎ表で確認する。期限切れの試料、再取得できるもの、患者由来で代替できないもの。捨てる基準についても意見は割れた。都和は将来使う可能性を残したがり、深雪は誰も読まない「念のため」を信用しなかった。

それでも代替不能の箱だけは、二人とも最初に抱えた。

予備冷凍庫の棚を空け、霜を削り、箱を移す。冷気で指先が痛くなり、深雪が手袋を二重にすると、都和も同じようにした。午前三時、最後の試料を収めた時点で、温度はマイナス七十六度まで下がった。

「科学館、子ども相手でしょ。向いてると思わない」

「私も、都和がここで幸せになるとは思わない」

どちらも撤回しなかった。

深雪は廃棄試料の記録へ署名し、都和は保存試料の責任者欄へ署名した。違う欄に並んだ名前を、二人で一度だけ確認する。

警報が止まると、研究室は急に静かになった。都和が重い冷凍庫の扉を押し、深雪が最後の数センチを引き寄せた。密閉を知らせる低い音がして、二人は同時に手を離した。