マグカップの底
倉橋灯子は、段ボールへ詰める前に、白いマグカップの茶渋だけを落とすことにした。
亡くなった母の台所は、明日の朝、遺品整理業者が片づける。食器はほとんど手放すと決めたが、金色の細い縁があるそのカップだけは、自分の部屋へ持ち帰るつもりだった。母は朝に紅茶を飲み、午後には同じカップへほうじ茶を注いだ。底には濃い輪が残り、スポンジでこすっても薄くならない。
灯子は母とのチャットを検索した。「茶渋」と打つと、三年前の音声が出てきた。灯子が新居のカップを汚したとき、母が送ってきたものだ。
『重曹を小さじ一。熱いお湯を入れて、十分待つ。金のところはこすらない』
声の後ろでテレビの料理番組が鳴っている。母は説明の途中で、計量スプーンが見つからないと引き出しを開け閉めしていた。
灯子は同じ引き出しを探した。小さじは見つからず、代わりにプリンの付属スプーンが三本出てきた。音声の母が『なければ適当でいい』と続ける。灯子は白い粉を一杯すくい、カップへ落とした。
電気ケトルの湯を注ぐと、細かな泡が底から浮かぶ。泡は金の縁の手前まで上がり、灯子は慌てて少し湯を捨てた。待ち時間は十分。灯子はほかの食器へ手を出さず、床に座って再生を続けた。
『時間がきたら柔らかい布。落ちなかったら、もう一回。力で取ろうとしない』
そのあと、母は誰かから電話を受け、録音を止め忘れたらしい。二分ほど、湯を沸かす音と鼻歌、食器棚の扉を閉める音だけが続いた。曲名は分からないのに、灯子は次に音程が上がる場所だけ覚えていた。灯子は以前なら途中で切っていた空白を、今日は最後まで聞いた。
タイマーが鳴る。湯を捨て、古い布巾で底を円くなぞる。茶色い輪は、驚くほど簡単に布へ移った。もう一度すすぐと、白い底に小さな製造番号が見えた。
灯子は金の縁へ触れないよう水気を拭き、新聞紙でカップを包んだ。段ボールの中央へ置き、周りを丸めたタオルで埋める。箱の側面へ「割れ物」と書く。最後の隙間がなくなるまで押し込み、カップが動かないことを両手で確かめてから、箱の蓋を重ねた。