レモン色の湯船

 杵築葉月は、医療機器の営業で全国を飛び回っていた。

 ホテルの浴槽はどこも白く、湯を張る余裕はなく、シャワーを浴びながら次の訪問先を考えた。

 退職後、瀬戸内の柑橘島へ移った理由を訊かれると、「風呂へ入りたかったから」と答えた。

 借りた古民家の浴室は、思った以上に古かった。

 青い小さなタイルは何枚も剥がれ、浴槽の縁には細いひびがある。葉月は業者へ頼まず、自分で直すことにした。

 島の左官職人から余ったタイルを譲られたが、青だけでなく、黄色、白、薄緑が混じっていた。

「色をそろえたいんです」

「そろった頃には春になるぞ」

 職人は笑った。

 葉月は黄色いタイルを浴槽の角へ、白を床へ、薄緑を壁の低い部分へ貼った。

 目地は太くなり、列も少し曲がった。都会のショールームなら採用されない仕上がりだ。

 それでも一枚ずつ押しつけるたび、浴室の冷たい壁が自分の場所へ変わっていった。

 庭の檸檬の木には、傷のついた実が残っていた。

 近所の女性が「皮だけでも使える」と籠へ入れてくれる。

 修繕が終わった夜、葉月はその檸檬を薄く切り、湯へ浮かべた。

 湯気が立ち、黄色いタイルと本物の果実が揺れる。

 肩まで沈むと、ひびを補修した縁が腕へ少しざらついた。葉月はその手触りを指でなぞった。

 完璧な浴室ではない。けれど誰かの出張予定にも、翌朝の新幹線にも追われない湯だった。

 窓の外から波の音が聞こえた。

 檸檬の皮を絞ると、明るい香りが一段強くなる。島へ来て初めて、葉月は湯が冷めるまで浸かった。

 翌日、職人が様子を見に来た。

「黄色、悪くないでしょう」

「レモンみたいで」

「この島らしい」

 葉月は残ったタイルで、脱衣所に小さな棚を作った。そこへ石鹸と、次に浮かべる檸檬を並べる。

 冬の夕方、古民家の煙突から白い湯気が上がる。

 浴室には海の塩気と柑橘の香りが混じり、曲がった目地へ温かな水滴が残った。

 湯船の水面では、檸檬の薄い輪が照明をゆっくり揺らしていた。

 葉月は濡れた髪のまま縁側へ座り、島の夜が来る速さを、もう急かさずに眺めていた。