一杯ぶんの浅煎り
十八時五十分。塩見亮成は閉店前の焙煎所で、柚原奈津が淹れた浅煎りのコーヒーを飲んでいた。彼女が新しい店の契約へ向かうまで十分。テーブルには、二人で使ってきた銀色の豆缶がある。
大学のサークル室で初めて豆を挽いて以来、缶は亮成と奈津の部屋を往復した。蓋には産地と焙煎日を書いた紙が何層も貼られ、古い文字は端から少しずつ覗いている。いつか二人で店を持とう、と酔った夜に話したこともあった。缶の底には開店資金のつもりで五百円玉を一枚入れ、豆を補充するたび「まだ足りない」と笑った。その硬貨だけは今日も底で鳴っていた。
「共同経営者、決まったんだって?」
「うん。今日、契約する」
「その人、奈津のこと分かってる?」
「亮成よりは、言葉で確認する人」
奈津は笑った。共同経営者は年上の男性で、暮らす場所も同じ建物になるらしい。亮成は、友人として味だけを評価した。
「少し酸味が強い。でも朝の一杯ならいい」
「最後まで、店の話なんだね」
「それを聞きに来たんだろ」
十八時五十七分。奈津は契約書の入った鞄を肩へ掛け、銀の缶を亮成へ残した。
「中の豆、今日で使い切って」
「新しい店へ持っていけばいい」
「二人用に混ぜたから」
奈津が出たあと、熱で緩んだラベルの端が浮いた。亮成が剥がすと、一番下の紙が現れた。五年前の字で、奈津が店名の候補を書いている。
〈R&N。亮成と店を持つ。できれば、帰る場所も同じにする〉
その下には、亮成自身の走り書きがあった。
〈友達と仕事を混ぜるとろくなことにならない〉
別の知人の失敗について書いたつもりだった。奈津は自分への返事だと思い、その上へ新しいラベルを重ね続けたのだ。
電話をかけると、奈津は出た。
「今、契約書を開いたところ」
亮成は止める言葉を探した。けれど五年黙った人間の「待って」は、今日会った共同経営者の署名より軽かった。
「成功するといいな」
「ありがとう、友達として」
通話が切れた。亮成は残った豆を二杯分挽き、一杯だけ抽出した。空のカップを隣へ置き、二杯目の粉を捨てた。