一灯だけの海

「灯りは一つ残しておきます」

岬の宿〈白岬灯房〉は灯台を兼ねていた。主人エルンは夕方になると窓を磨き、油を足し、遭難者用の毛布を乾かす。海が荒れても、彼女は灯台守らしい無口さで仕事を続けた。灯台の火が消えた記録は三百年間ない。町では代々同じ名を継いでいると思われていたが、古い航海画の女主人も今と同じ顔をしていた。

難破して運び込まれた船長マーレクは、その晩、二階の窓から海を見張っていた。沈んだ仲間の船を探していたのだ。助かった自分だけが暖炉の前にいることが耐えられず、濡れた望遠鏡を何度も海へ向けた。

沖の闇が持ち上がった。島ほどもある深淵鯨が、灯台の光を食べに来た。口の中には沈没した町々の鐘が並び、一度鳴れば岬ごと海底へ沈む。マーレクの船もその腹の中で、乗組員ごと影になって揺れていた。

エルンは客室の蝋燭を順に消して歩いた。最後の一本だけを窓辺へ置き、火芯を指で整える。

その小さな炎が、水平線になった。

深淵鯨が口を開けた瞬間、海も雲も巨体も、蝋燭の炎へ向かって遠ざかり始める。島ほどの怪物は魚に、魚は影に、影は一匹の黒い蛾になった。蛾が火へ触れ、かすかな煙となる。煙の中から飲み込まれていた船と町の鐘が解き放たれ、音もなく元の海へ戻っていった。

マーレクだけが、炎の奥に何千もの星座が組み替わるのを見た。航海魔法の始祖、大魔法使い〈灯海の女王〉が使った天体陣だった。

「あなたが海戦を終わらせた、あの……」

「窓を開けると風が入ります」

エルンは窓を閉め、煤を布で拭った。鯨が砕いたはずの波止場も、海底へ引かれた船も元の位置へ戻っている。眠っていた遭難者たちは、遠雷だと思って寝返りを打っただけだった。

夜明け前、マーレクの仲間の船が灯台の光を見つけ、無傷で湾へ入った。甲板から鳴った救助の鐘は、先ほど怪物の口に並んでいたものと同じ音だった。彼が礼を言おうと振り返ると、エルンは空いた燭台を集めていた。

そして最後の一本を指して、いつもの低い声で告げた。

「灯りは一つ残しておきます」