三十秒先の笑い
漫才師の轟木礼央は、三十秒先の客席通知を使って売れた。
舞台袖の端末に、未来の反応が先に出る。
〈笑い・大〉
〈沈黙〉
〈一名退席〉
礼央は相方の台詞を聞きながら、沈黙になる言葉を避け、笑いの大きい方向へ話を曲げた。テレビでは一度も滑らず、「客の心を読む男」と呼ばれた。
だが相方は辞めた。
「お前、俺と喋ってない。三十秒後の客と喋ってる」
礼央は一人で舞台に立った。通知どおりに間を取り、通知どおりに転び、通知どおりに泣くふりをした。楽屋では若手がネタの相談に来たが、礼央は内容を聞かず、『そこは二秒ためろ』と未来反応だけを教えた。若手は笑いを取ったあと、二度と相談に来なかった。別れた妻からは『私たちの喧嘩まで商品にしないで』と連絡が来た。礼央は謝る代わりに、その文を次のネタへ入れた。客には受けた。笑いは増え、生活は豊かになった。それなのに終演後、どの夜も思い出せなかった。
ある生放送の日、端末に初めて見た通知が出た。
〈笑い・最大。ただし演者は翌日引退を発表〉
礼央は台本を見た。最後のネタは、離婚した妻との暮らしを面白おかしく話すものだった。事実を少しずつ削り、客が笑う形に整えてある。これを演じれば最高の笑いが取れ、そして自分は続けられなくなるらしい。
本番直前、礼央は端末を舞台袖へ置いた。
客席に出ると、三十秒先が見えなかった。恐ろしくて、最初の挨拶を噛んだ。笑いは起きない。
礼央は台本を閉じた。
「今日は、面白くない話をします。僕は、笑いに変えれば謝らなくて済むと思っていました」
妻へ言えなかったこと、相方へ言えなかったことを話した。会場は長く静かだった。最後列で一人だけ、短く笑った。馬鹿にした笑いではなく、分かるよ、と息を漏らすような笑いだった。
放送後、仕事は半分になった。元相方からは〈やっとお前の声を聞いた〉とだけ届いた。礼央は小さな劇場で、滑る日もある漫談を続けた。
三十秒先の大爆笑より、今ここで一人から返ってくる声のほうが、彼には長く残った。