九分遅れのボイスメモ

十七時五十分。石動直生はレコード会社の会議室で、日下部藍へ送った。

〈十八時までに来なければ、ソロ契約にサインする〉

未読。

テーブルには契約書と、黒いギターピックがある。ピックの表に直生のN、裏に藍のA。高校の文化祭から使い回し、縁は丸く削れていた。二人のバンド名より先に、二人の名前を刻んだものだ。

藍は一週間前、「もうステージには立てない」と言った。直生は、それをバンドも恋人も辞める宣言だと思った。

十七時五十三分。担当者が腕時計を見る。

「彼女が来ないなら、条件は今日限りです」

直生は署名欄へペンを置く。だが、まだ書かない。

十七時五十五分、受付から藍のギターケースが届いた。本人は来ていない。ケースの取っ手には、二人で買った青い布が結ばれている。

「これを返して終わり、ってことか」

直生が呟くと、担当者は何も答えなかった。

十七時五十七分。未読。

直生はギターケースを開いた。中は空で、代わりに五線譜の束が入っている。右上に〈歌・直生/作曲・藍〉とある。だが、その意味を考える前に担当者が契約書を指で叩いた。

「残り三分です」

十七時五十九分、携帯が震えた。

藍から九分前に送られたボイスメモだった。地下のリハーサル室からの送信が、電波を拾えず止まっていたらしい。

『手首、医者に止められた。弾けないだけで、辞めたいんじゃない。これからは私が曲を書く。直生が歌って。恋人の方も、終わらせるつもりはない』

声の後ろで、鉛筆が譜面を走る音がする。

『十八時に上へ行く。待ってて』

会議室の秒針は、五十九分の終わりへ近づいている。藍が来るまで、もう一分しかない。

担当者は契約書を引き寄せた。

「ソロなら、彼女の曲は使えません。連絡も制作参加も禁止です」

廊下の向こうで、エレベーターの到着音がした。

直生は黒いピックをつまんだ。NとAは表裏で、同時には見えない。けれど一枚から切り離せない。

扉の外から足音が近づく。

直生は署名欄へ黒いピックを置いた。NとAが見えるよう、何度も裏返す。

担当者が差し出したペンを返し、直生は白紙の契約書を閉じた。