九十二パーセント

皆月颯士の母、典子は、朝食の前に五分間だけ笑う。

食卓の端末が頬、目尻、口角を測り、接客職に必要な《笑顔率》を表示する。採用条件は九十二パーセント以上。客の不安を数値で減らすため、表情が基準に届かない候補者は経験に関係なく落とされる。

〈91.6%〉

「昨日より上がった」

典子は左の口角を指で揉んだ。半年前の脳梗塞で、顔の左側が少し動きにくい。言葉も歩き方も戻ったが、笑うと左右がずれる。

応募先は駅前図書館の案内係だった。典子は二十年、町の書店で働き、子どもが表紙を見せるだけで本の題名を当てた。閉店後も、常連から道で声をかけられる。

今週だけで四つの接客求人に落ちた。どの通知にも、経験不足ではなく〈不快表情〉とあった。典子は通知が来るたび、鏡の前で左頬を持ち上げた。昨夜は筋肉がつって、夕食を噛めなくなった。

最終撮影は正午まで。颯士は照明を動かし、母が好きな落語を流した。

「無理に口を広げないで。目で笑う感じ」

「AIに目で笑う感じが分かるなら苦労しないよ」

十回目、典子は昔の店で客を迎えたときのように「いらっしゃいませ」と言った。

〈口角上昇率 92.1%〉

二人で息を呑む。だが次の瞬間、赤い補正値が重なった。

〈左右非対称 -7.3〉

〈最終笑顔率 84.8%〉

〈不採用〉

「笑ってないことにされた」

典子は鏡を見た。左だけ少し下がった口元は、颯士にはいつもの母の笑顔だった。

試しに颯士が、菓子箱に印刷された丸い笑顔のマークをカメラへ向ける。

〈笑顔率 99.8%〉

〈接客適性 優秀〉

端末は紙の顔へ、応募案内まで表示した。

颯士は菓子箱を裏返した。典子はもう一度笑ってみせる。痛みで目に涙がにじんだせいか、さっきより柔らかく見えた。

「帰りに図書館へ寄ろうか」と典子が言った。「働けなくても、借りたい本はあるから」

玄関を出ると、隣家の子が典子を見て手を振った。典子が片側だけの笑顔で振り返すと、その子も同じように口を斜めにして笑った。

颯士は端末の再撮影通知を消し、母の歩幅に合わせて家を出た。