乾かない墨
柘植谷泰周は二十四歳のデザイン学生で、卒業制作に使う古い書体を探していた。泊まったのは墨作りで知られた烏川村の宿坊だ。
宿帳は硯と筆で記す。住職は、旅人の名が乾くまでの間だけ宿の内と外が同じ場所になる、と話した。机の脇には短い注意が貼られている。
《墨が乾く前に、宿帳を閉じてはいけない》
泰周が署名した直後、スマートフォンに教授から着信があった。電波は帳場の外しか入らない。風で頁がめくれそうになり、彼は一度だけ表紙を閉じて重しにした。
電話を終えて戻ると、墨は反対側の頁へ写っていた。ただの裏写りではない。左右反転した名前の下に「外」と書かれ、元の頁には「内」とある。
住職は帳面を見ずに言った。
「どちらが出ていったか、朝まで分かりません」
泰周は笑えなかった。部屋の鏡では、自分だけ文字のように左右が戻らない。右手を上げると鏡も右手を上げた。
翌日、村を出て大学へ戻った。卒業制作のファイルを開くと、全ページに薄い署名が透けている。削除しても、印刷すると必ず裏面へ現れた。
教授は作品を見て首をかしげた。
「柘植谷、これは誰のサインだ。おまえの字を反転したみたいだが」
その夜、自宅プリンターが勝手に一枚吐き出した。白紙の表には《内》、裏には《外》。裏側の署名だけ、墨が濡れている。
大学の入退室カメラでは、泰周が建物へ入るたび、左右反転した服装の人物が同時に出ていた。友人とのビデオ通話では声だけが半拍ずれ、片方は会話の返事を先に知っている。濡れた署名をティッシュで拭うと、ティッシュの裏面から部屋番号が浮いた。宿坊へ問い合わせた住職は、「外へ出た方が電話をしているなら、内に残った方は眠れません」と静かに答えた。
鏡へ近づくと、反転しない自分の肩越しに宿坊の廊下が映った。廊下側の泰周は濡れた筆を持ち、こちらの動きを一文字ずつ書き留めている。
スマホの電子署名アプリが起動し、確認を求めた。
《外側の本人が帰宅しました。内側の本人をログアウトしますか》