亀より遅いパンケーキ
介護職の波多野由良は、帰宅してもすぐ椅子へ座れない。
制服を洗濯機へ入れ、弁当箱をすすぎ、明日の靴下を出す。誰にも頼まれていないのに、順番を崩すと一日が終わらない気がする。
午前零時半、ようやく居間へ入ると、陸亀の釘が保温灯の下で眠っていた。
「あなたはもう終業したのね」
釘は石のように動かない。
由良は夕食を職場で食べ損ねていた。冷蔵庫を開けると卵と牛乳、使いかけのホットケーキミックスがある。夜中に甘いものだけ、という考えが少し嬉しかった。
ボウルで生地を混ぜ、フライパンへバターを落とす。急いで強火にしたくなる手を止め、弱火にする。表面に小さな穴が開くまで待つ。
「釘なら、まだ一歩も進まない時間」
裏返すと、丸い焼き色がきれいについた。
三枚重ね、塩気のあるバターをのせる。蜂蜜ではなく、冷蔵庫のメープルシロップをたっぷりかけた。琥珀色の筋が段々を伝い、皿へたまる。
一口切ると、外は薄く香ばしく、中は湯気を含んで柔らかい。バターの塩が甘さを押し上げ、噛むたび肩が下がった。
今日、入居者の女性に「あなた、せっかちね」と笑われた。食事介助を急いだつもりはない。ただ次の仕事、次の呼び出し、次の記録が頭に並んでいた。
「私、食べるのも速いな」
由良はフォークを置いた。釘を見る。陸亀は眠ったまま、こちらを急かさない。
二枚目は、温かいうちに食べることより、味を覚えることを優先した。小麦の匂い、焦げたバター、舌へ残るメープル。冷めても甘い。
食後、由良は洗い物を朝へ回した。流しへ置くだけで、何か悪いことをしたような気がしたが、そのまま保温灯を消す。
布団へ入る前、釘が一度だけ首を伸ばした。ほんの数センチ進み、水皿のそばでまた止まる。
由良の部屋には、甘く焼けた生地の匂いが残っていた。今夜は一日を終えるのに、急がなくていい。そう思うまでの時間さえ、ゆっくり待てた。
流しに残した皿から、メープルとバターの匂いがかすかに漂う。由良はそれを未完了ではなく、朝への引き継ぎと呼ぶことにした。釘の甲羅は暗闇の中で、丸いパンケーキのように静かだった。