二つ目の影は踵から生まれた
仮面の灯りが一斉に細くなり、聖女イヴォンヌの背後から黒い獣が立ち上がった。
影の爪は彼女の肩を裂く寸前で消えた。床にはノイエン家の闇術紋が残り、夜会客はアデルハイトから離れていく。
「彼女です。私が殿下に選ばれたことを妬み、影獣を放ちました」
公爵令息ハインリヒはイヴォンヌを庇い、婚約者へ冷笑を向けた。
「闇術を隠していたとはな。アデルハイトとの婚約を破棄し、異端審問へ引き渡す」
アデルハイトの指先は冷えた。異端審問という言葉がどれほど人を壊すか、彼女は知っている。昨日まで婚礼の日取りを語っていた口が、今日は彼女を地下牢へ送ろうとしている。それでも怯えを見せれば、それさえ自白として使われる。
「影狩り長キリアン。《影灯》を点けてください」
柱にもたれていた黒衣の男が、一本の細いランプを掲げた。影灯は、最後に生まれた人工影の根だけを照らす捜査具である。
青白い火が床を舐めた。
ノイエン家の紋は表面から剥がれ、墨のように消える。その下から伸びた本当の影糸は、イヴォンヌの靴の踵へつながっていた。踵の裏には、影獣を作る聖印が反転して刻まれている。
「家紋はあとから被せた化粧だ。影の出生地は、聖女様の右足」
キリアンは影灯を吹き消した。暗闇に必要な説明は、それだけだった。
イヴォンヌが裾で靴を隠す。黒い獣よりも、沈黙した広間のほうが彼女には恐ろしく見えた。ハインリヒは額の汗を拭い、急にアデルハイトへ近づいた。
「聖女を陥れた別の者がいるのだろう。審問命令は取り消す。婚約も戻すから、君は余計なことを言うな」
「闇より恐ろしいものを、今夜見ました」
アデルハイトは仮面を外した。
「私の顔を見ながら、証拠もなく地獄へ送れる方です」
ハインリヒの呼び止める声を無視し、彼女は黒い紋の上を踏み越えた。
キリアンが片方の手袋を外し、手を差し出す。
「夜警局には、影を怖がらず、偽の紋にも騙されない目が要る。来るか、ここへ残るかはあなたが選べ」
アデルハイトは元婚約者に背を向け、影灯の煤が残るキリアンの手を取った。