人混みの非常口
彼女は、人混みが苦手だった。
朝礼でも、体育館の入口でも、前後から押されると呼吸が浅くなる。学校ではいつも列の端に立っていた。
それなのに夏祭りへ来たのは、クラスのみんなと一度くらい同じ思い出を作りたいからだという。
待ち合わせ場所に現れた彼女は、淡い紫の浴衣だった。普段の大きなカーディガンがなく、肩が心細そうに見えた。
「帰りたくなったら言って」
僕が言うと、彼女は笑った。
「最初から帰る話しないで」
けれど参道へ入って十分後、彼女の顔から色が消えた。
前も後ろも人。屋台の熱、太鼓、呼び込み。立ち止まることもできない。
僕は彼女の手を握ろうとして、やめた。触れられることも負担になるかもしれない。
代わりに、人差し指と中指だけ差し出した。
「これなら?」
彼女は二本の指を握った。
僕らは列を外れ、神社の裏手へ回った。学校の避難訓練で覚えたように、広い道ではなく、空いている道を選ぶ。
細い路地まで来ると、彼女は壁に背を預けた。
「ごめん」
「謝ることじゃない」
「みんなと見たかった」
遠くで最初の花火が上がった。建物の間から、上半分だけ見える。
「ここでも見える」
「音だけみたい」
「見えなくても花火だよ」
彼女は少し笑った。
呼吸が戻るまで、僕らは二本の指をつないだままだった。花火のたび、路地の壁が一瞬明るくなる。全体は見えない。それでも、彼女は音を数えた。
「今の大きい」
「見てないのに分かる?」
「地面が震えた」
しばらくして、クラスのグループから写真が届いた。河原いっぱいの花火と、笑うみんな。
彼女は画面を見て、泣かなかった。
「来年は、最初からここを場所取りしよう」
「非常口みたいだな」
「私たちの特等席」
帰り道、駅前の人混みが見えた。彼女は一度立ち止まった。
僕が指を二本差し出すと、今度は手のひらごと握られた。
「今日はこっちで」
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないから、つなぐ」
僕らはゆっくり駅へ向かった。
新学期、体育館へ移動するとき、彼女は列の真ん中にいた。怖くなくなったわけではない。隣の僕の制服の袖を、二本の指でつまんでいた。
それは逃げるためではなく、戻るための合図だった。