会ったことのない婚約者
乙部璃都は、婚約者の身体を知らなかった。
二人は仮想都市の図書館で出会った。璃都は銀色の髪の司書、相手は羽のある郵便配達員だった。三年間、毎晩同じ橋で話し、同じ家を借り、仮想の猫を育てた。触れれば温度も鼓動もあった。
現実の姿を尋ねないことが、二人の約束だった。
結婚制度が改正され、仮想婚にも一度だけ身体確認が必要になった。駅の面会室で十分間、補正なしに会う。拒否すれば婚姻申請は失効する。制度は『幻想に対する同意』と『現実の相手に対する同意』を別物とみなしていた。二人が積み重ねた三年は、法の上ではまだ試着期間にすぎなかった。
前夜、璃都は鏡の前で接続を切った。現実の身体には、生まれつき片腕がなかった。相手には言っていない。哀れまれるのも、勇気があると褒められるのも嫌だった。
面会室へ向かう途中、婚約者から通知が来た。
《外見相互補正を使う? お互いが望む姿に見えるらしい》
璃都は《使わない》と返した。
《僕も》
扉の前で足が止まった。向こうにいるのが、老人かもしれない。子どものころから寝たきりかもしれない。そもそも肉体を持たない試験人格かもしれない。考え始めると、仮想図書館の三年間まで作り物に思えた。好きになった笑い方も、沈黙も、AIが相性を高めるため調整した可能性がある。
扉越しに声がした。
「璃都。橋で待ち合わせたとき、君はいつも三分遅れる」
「あなたが十分早いだけ」
二人は笑った。仮想空間と同じ間だった。
扉が開いた。
璃都は相手の姿を見た。驚いた。相手も驚いた。けれど、何に驚いたのかを二人は口にしなかった。
面会室の窓から午後の光が差していた。制度上、それは現実だった。だが璃都には、光の粒も、床の硬さも、精密すぎて仮想に見えた。
相手が手を差し出した。
璃都も、ある方の手を差し出した。
触れた瞬間、温度と鼓動が伝わった。仮想の橋でも同じだった。
「どっちが本物なんだろう」と璃都は言った。
「約束を破ったら痛い方じゃない?」
二人は婚姻届に署名した。現実を証明できたからではない。これから互いの選択に、取り消せない重さを持たせるためだった。