会社が生まれる三日前

農業用土壌センサーの投資委員会で、鳥越夏帆は新興企業のインターンとして資料を配っていた。会社は、農家の経験則を数値化するセンサー特許を持つとして、十億円の出資を求めている。

発明者は創業者の南方。だが夏帆は、同じ構造を近隣農家の御手洗が手作りしていたことを知っていた。彼女が実証実験を手伝ったからだ。

投資家へ示された特許譲渡契約書には、御手洗が「すべての発明を会社へ譲渡する」とあり、会社の代表印も押されている。日付は四月一日。

夏帆は登記事項証明書を並べた。

「会社の設立日は四月四日です」

四月一日には、譲受人である会社が存在しない。さらに代表印の印鑑届出日は四月五日。契約書の印鑑は、会社が生まれる三日前に押されたことになる。

南方は、設立前の発起人として契約したのだと説明した。

しかし契約書の名義は南方個人ではなく、法人番号まで記載された会社名義だった。その法人番号が発行されたのも四月四日。後から作って日付だけ戻した以外にない。

御手洗本人の確認書も届いていた。「試験用に貸したが、譲渡契約へ署名していない」。契約書の署名は、農協の申込書から複写した画像と一致した。

南方は夏帆を睨んだ。

「会社が育てば、地域の農業も助かる。インターンが理想論で潰すな」

夏帆は、土壌水分を示す一枚のグラフを見た。御手洗が何年も記録した数字だった。

「育てる会社なら、種を蒔いた人を消さないはずです」

投資家の一人は、設立前契約を会社が追認すれば有効になり得ると指摘した。夏帆は頷き、その場合でも御手洗本人の真正な同意が必要だと答えた。御手洗の署名画像には、農協申込書の罫線の一部まで残っている。追認できるのは契約であって、存在しない署名ではなかった。

投資委員会の書記は、法人番号の発行履歴をその場で公的データベースと照合した。

投資委員長は契約書から認印を離した。十億円の決裁は、会社がまだ存在しなかった四月一日で止まった。