偽物令嬢の雨宿り
和平晩餐会を壊した一言は、シャルロッテの口から出た。
北方語で「永い友誼を」と言うはずが、古語の発音を誤り、「永い服従を」と宣言してしまった。使節団は席を立ち、調印は延期。杯を置く音が一斉に響き、楽団まで演奏を止めた。広間には『所詮は拾われた偽物令嬢』という囁きが満ちた。
養家の名を背負う資格はない。シャルロッテは夜の宮殿を抜け、正門脇の軒下で雨を見ていた。迎えの馬車は三台あるはずだったが、どれにも乗れない。雨粒が石畳を白く跳ね、薄い夜会靴へ染み込む。それでも門番へ声を掛ける勇気が出なかった。侯爵家へ戻れば迷惑をかける。三人も、今度こそ彼女を見限るだろう。エドガーは交渉を失い、レイヴンは警備責任を問われ、アルノーは誤訳を見抜けなかったと責められる。自分が消えれば、三人は被害者でいられる。
幼い頃、礼法を間違えた日は食卓から椅子を下げられた。「役に立つ間だけ家族だ」と教えられた。捨てられる前に消える癖だけは、貴族になっても直らなかった。
「辞書を忘れている」
外交官エドガーが雨の向こうから来た。濡れた革表紙の辞書には、問題の語へ訂正札が挟まれている。彼は自分の家印をその頁へ押した。
「明日の再交渉では、私も訳文に署名する」
次に騎士レイヴンが大傘を開き、シャルロッテではなく軒下の出口を覆った。彼自身は半分雨に濡れている。
「どこへ行くにも護衛する。勝手に消える道だけは塞ぐ」
最後に書記官アルノーが、空の馬車を一台引いてきた。扉を開け、奥ではなく手前の席へ自分の鞄を置く。
「侯爵邸まで三人とも同乗する。道中で発音練習だ」
「私は調印を失敗させたのよ」
「だから明日、直す」とエドガー。
「今夜は帰す」とレイヴン。
「席は四つある」とアルノー。
責任も恥も消えない。だが辞書は閉じられず、傘は畳まれず、馬車は走り去らなかった。
「また、見捨てられると思った」
三人は長い言葉を返さない。エドガーは辞書を彼女の膝へ置き、レイヴンは雨の中へ踏み出す足場を守り、アルノーは隣の席を空けた。
侯爵邸の門には、四人が着くまで灯りを消さないよう、すでに伝令が走っていた。