兎の耳と柚子味噌田楽
古い茶屋「兎月庵」の庭には、灰色の兎が二羽いる。
餅と小豆という名前で、昼間は縁側の前を自由に跳ねる。客が立ち上がると、耳だけこちらへ向けたまま、知らん顔をする。
有働聡一は、理髪店を閉めてから毎週木曜に来た。
四十七年間、鋏を持ち続けた。最後の日、常連客たちは花束をくれた。翌朝、目覚ましを止めても、行く場所がなかった。
妻は旅行へ行こうと言う。娘は趣味を見つけろと言う。だが聡一は、趣味という言葉を聞くたび、宿題を出された子どものように黙った。
「今日は田楽ですよ」
庵主の史朗が、炭火で焼いた豆腐と蒟蒻を皿へ並べた。表面には柚子味噌が塗られ、ふつふつと小さな泡を立てている。
「兎は暇そうでいいな」
「かなり忙しいですよ」
「何が」
「耳を動かして、草を選んで、穴を掘る場所を考えてる」
「仕事じゃない」
「兎にとっては、暮らしです」
聡一は豆腐へ箸を入れた。焼けた味噌は甘く、柚子の皮の苦みが鼻へ抜ける。蒟蒻は歯を押し返し、噛むほど出汁が滲んだ。
庭では、小豆の耳に枯葉が一枚乗っている。餅が鼻先で落とそうとするが、なかなか取れない。
「鋏を持たないと、手が余るんだ」
「余った手で、何か持てばいい」
「何を?」
史朗は自分の白髪を指した。
「そろそろ切ってほしいな。床屋へ行くのが億劫で」
聡一は眉を寄せた。
「店は閉めた」
「縁側なら開いてる」
「鏡も椅子もない」
「兎は見ますよ」
「余計にやりにくい」
そう言いながら、聡一の指は無意識に史朗の襟足の長さを測っていた。
次の木曜、聡一は古い鋏と櫛を持ってきた。客を取るつもりはない。ただ史朗の髪を整え、ついでに妻の前髪も切る。それくらいなら、仕事ではなく暮らしにしてもいいと思えた。
帰り際、餅が聡一の靴紐を齧ろうとした。
「こら、商売道具じゃないぞ」
聡一がしゃがむと、兎の耳が掌のそばで温かく揺れた。
茶屋の戸口には炭の匂いが残り、口の中では柚子味噌の甘さがゆっくり薄れていった。木曜までの一週間が、以前より少し短く思えた。