削除できない一行

「消したメッセージは、なかったことにしてください」

共同アトリエで働く大貫遥乃は、誤字を削除するたび速水朔也へそう頼んだ。朔也は《了解》のスタンプだけを返し、内容を蒸し返さない。二人で夜遅くまで制作しても、その礼儀があるから安全だった。朔也が遥乃の分まで筆を洗い、遥乃が彼の机へ夜食を置いても、説明しなくてよい距離のままでいられた。

アトリエの契約更新日、朔也は別の制作室へ移ると決めた。仕事場が変われば、毎晩同じ電気を消す関係も終わる。

遥乃は友人へ送るつもりで、チャットに打った。

《朔也が帰るまで、毎日わざと片づけを遅くしてた》

《好きな人を待ってたって、最後くらい言えばよかった》

送信先は朔也だった。

一秒で削除した。既読はついていない。通知のプレビューまで見られたかは分からない。

最後の作業を終え、遥乃は先に電気を消した。いつも通り「お疲れさま」とだけ言って出口へ向かう。朔也は何も聞かなかった。

建物の外で、遥乃が帰りのバスへ乗ろうとすると、後ろから手をつかまれた。朔也が、自分の作品箱を置いて追ってきている。

「消したメッセージは、なかったことにするんだろ」

「そうして」

「じゃあ、俺が見た通知は使わない」

彼はスマホを開き、翌週の予定を見せた。新しい制作室の合鍵受け取り、そのあと夕食。参加者に遥乃の名前が入っている。さらに毎週木曜、《遥乃を待つ》という繰り返し予定が設定されていた。

「これは、俺が勝手に決めたこと」

朔也は手を離さず、バスを見送った。赤い尾灯が角を曲がっても、朔也は手を離さない。次の便まで二十分ある。

遥乃は予定名を《遥乃と朔也が会う》へ変え、承諾を押す。連絡先も《速水さん》から《朔也》へ直した。

「作品を運ぶ手、足りないでしょ」

「足りる。でも来てほしい」

短い返事と同時に、握る力が少し強くなる。

消したメッセージは、なかったことにする。

だから二人を動かしたのは誤送信ではなく、消したあとにも手を伸ばした朔也自身の選択になった。