勇気の最後の一口

 鬣のない獅子の精霊は、勇気を作れない。

 一人の胸から食べ、別の胸へ移すだけだ。

 証言室の前で、カサネは小さな精霊を膝に抱いていた。

 隣では見習い染色師のリュッカが、両手を震わせている。扉の向こうには組合長と七人の審問官がいる。工房で何が行われていたか、今日話せなければ記録は封じられる。

「私には無理です」

 リュッカは掠れた声で言った。

「顔を見たら、また何も言えなくなる」

 組合長に最初に呼び出されたのはカサネだった。

 夜の倉庫、鍵をかけられた扉、断れば仕事を失うという囁き。彼女が告発すると、同じ目に遭った若い職人たちが一人ずつ名乗り出た。けれど決定的な帳簿を見たのはリュッカだけだった。

 獅子がカサネの胸を嗅いだ。

「おまえには、まだ勇気がある」

「どれくらい渡せる?」

「全部なら、この娘は一人で扉を開けられる。半分なら、二人とも立てるかもしれない」

 半分で足りる保証はない。

 勇気を全部渡せば、カサネは組合長の前へ入れなくなる。自分の証言を撤回したくなるかもしれない。積み上げた言葉が、恐怖に押し流されるかもしれない。

「先輩が一緒なら」

 リュッカが袖を掴む。

「あなたがいたから、私はここまで来られたんです」

 だからこそ、最後は彼女自身の足で入る必要があるとカサネは思った。

 いつまでも「助けられた見習い」のままでは、審問官は声の弱さを嘘の弱さにすり替える。

 扉の向こうから、組合長の笑い声が漏れた。

 カサネの背中に冷たい汗が流れる。それでも逃げずにいられるのは、何度も言葉を練習し、仲間の手紙を胸に入れ、ここまで歩いてきた勇気があるからだ。

 それを丸ごと渡す。

 獅子の牙が鎖骨の下へ触れた。

 最初に、告発状へ署名した夜の勇気が食べられた。

 次に、職人仲間へ助けを求めた朝。

 最後に、組合長の名を大声で読んだときの震える強さ。

 カサネの膝が床につく。

 同時に、リュッカの背筋が伸びた。震えていた手が扉の取っ手を掴む。

「一緒に」

 彼女が言う。

 カサネは立とうとしたが、身体が拒んだ。扉の向こうを想像するだけで息が詰まり、指先が冷える。

 勇気がないとは、怖くないことの反対ではない。怖さに命令できないことだった。

 獅子は最後の一口を飲み込んだ。

 リュッカはカサネの袖から手を離す。

「今度は、私が先に行きます」

 扉が開いた。

 光の中へ歩く小さな背中を、カサネは廊下の床から見送った。