動物園の閉園後食堂

 動物園が閉まると、飼育員の足音が遠ざかり、園内放送の代わりに虫の声が満ちる。

 その頃、中央広場の東屋には、動物たちの「閉園後食堂」が開く。カピバラの夜匙が温かな湯を担当し、レッサーパンダの赤葉が林檎の皮を細く分ける。キリンの高窓は屋根越しに見張り、象の砂丘は鼻で落ち葉を集めて座布団にした。

 食材はそれぞれの夕食から、飼育員が適量を取り分けてくれたもの。人間は食堂のことを知らず、「夜はなぜか食べ残しが少ない」とだけ思っている。

 その夜、赤葉が話題にしたのは、昼間に来た少年だった。

「ずっと笑わなかった」

 高窓は遠くから見ていた。

「母親が『せっかく来たんだから楽しんで』と何度も言っていた」

「楽しまねばならぬ場所ほど、疲れる日もある」

 夜匙は湯へ笹の香りを移す。

 少年はどの檻でも立ち止まらず、最後にカピバラの前だけで長く座った。夜匙が何もせず湯に浸かる姿を、黙って見ていた。

「明日も来るのか」

 砂丘が訊く。

「年間券を持っていた」

 赤葉はチケット売り場の会話を聞いていた。

「では、見せ物をやめよう」

 高窓が言う。

「いつもどおりでは?」

「いつもより、もっといつもどおりに」

 翌日、少年は一人で祖父と来た。

 赤葉は木の上で丸くなり、高窓は遠い葉を噛み、砂丘は砂を背へかけた。夜匙は湯の縁へ顎を置き、ほとんど動かなかった。

 祖父は急かさず、少年の隣に座る。

「今日は、見るだけでいい」

 少年は小さく頷いた。

 十分後、夜匙が大きな欠伸をした。

 口の中まで見えるほどの欠伸に、少年の唇が少し緩む。

「眠そう」

「君も?」

「ちょっと」

「帰って昼寝するか」

「もう少し見てから」

 閉園後食堂で、赤葉が報告した。

「笑顔、一回」

「目標ではない」

 夜匙が湯を揺らす。

「座っていられた時間、二十二分」

 高窓は星を見上げた。

「それでよい」

 砂丘が林檎を一切れずつ配り、赤葉は皮の端を噛む。夜匙の湯からは青草の柔らかな香りが立った。

 動物園は、人間を喜ばせるためだけにあるのではない。何もしない動物の隣で、人間も何もしなくてよい時間を思い出す場所なのかもしれない。

 翌週、少年はノートを持ってきた。

 夜匙を描いた頁には、湯の中の丸い背中と、〈きょうは見ているだけ〉という一行があった。

 夜の食堂でその話を聞いた動物たちは、誰も拍手をしなかった。ただ皆で温かな湯の香りを吸い、静かな一日をゆっくり味わった。