匂いを残した密偵団
密偵長サルヴェクが料理人オウリを追放した夜、潜入班は国境砦へ一歩も入れなかった。
見張りの魔犬が、藪に伏せた彼らへ真っすぐ走ってきたからだ。
「風下のはずだぞ!」
風向きは正しい。装備にも消臭魔法がかかっている。それでも魔犬は鼻を鳴らし、三日前に食べた燻製羊の脂の匂いまで嗅ぎ当てた。
これまで潜入前にオウリが出していたのは、香りのない白根菜の煮物だった。味がしないと不評で、サルヴェクは毎回塩を要求した。
白根菜には、汗や息に残る食物の匂いを吸着する性質がある。三日間続けて食べ、刺激の強い香辛料を避けて初めて効く。オウリは任務日から逆算し、献立を変えていたのだ。
一晩だけ消臭魔法を使えば十分だと思った潜入班は、魔犬に追われ、暗号器を捨てて逃げた。砦へ侵入する前に、作戦は終わった。
逃走中、香辛料好きの剣士だけが三度も見つかり、仲間は彼を囮にするしかなかった。食べた物が任務の三日前から足跡になる。その単純な事実を、剣も暗号も一流の密偵たちは学んでいなかった。オウリの無味の煮物だけが、彼らの存在を消していた。
同じころオウリは、王都警備局の保護証人施設で鍋を見ていた。匂いを手掛かりに追跡する暗殺獣から、証人一家を守るための食事だ。
三日後、放たれた追跡獣は施設の前を通り過ぎた。
警備局長は窓からそれを確かめ、オウリへ黒い身分章を差し出した。
「剣も幻術も使わず、人を見つからなくした。あなたの献立は機密技術として扱う」
厨房には鍵が付き、献立閲覧には局長の署名が必要になった。密偵団では雑用だった料理が、ここでは命を守る専門職になった。
その日の午後、サルヴェクの暗号鳥が窓辺へ降りた。
『次の潜入は五日後だ。白根菜を用意し、直ちに戻れ。失敗分はお前の給与から引く』
オウリは文を読み終えると、局長の前で封を閉じ直した。
「返信も機密扱いになりますか」
「あなた自身の言葉なら、好きに書けばいい」
オウリは一行だけ記した。
『給与を引ける関係にはありません。密偵団との雇用契約は、私の身分章を取り上げた日に終了しています』