十二階の休日

 久慈川征司は、自宅から電車で二駅のホテルに一泊した。

 旅行ではない。観光地もなく、会社から見えるのと同じ街が窓の下にある。

 それでも受付で名前を告げ、カードキーを受け取ると、日常から薄い扉一枚ぶん離れた気がした。

 部屋は十二階だった。

 白いベッド、磨かれた机、小さな浴槽。征司は荷物を置き、まずカーテンを開けた。いつも歩く駅前が、模型のように見える。

 予定は何も作らなかった。

 読みかけの本を持ってきたが、机へ置いたまま。館内案内を見て、大浴場へ行き、まだ明るい時間に湯へ入った。

 戻ってから、ベッドの上へ大の字になる。

 家なら洗濯物や郵便物が目に入る。ここには、片づけるべき自分の物がない。

 夕食は、近くの惣菜店で買った海苔巻きと茶碗蒸しにした。

 ホテルのレストランへ行くほどでもなく、コンビニだけでは少し味気ない。その中間を自分で選べるのが心地よかった。

 窓辺の小さな卓で蓋を開けると、出汁と海苔の香りが上がった。

 テレビをつけず、街の灯りを見ながら食べる。

 誰かと泊まれば、次に何をするか相談するだろう。今夜は食べ終えても、何も決めなくてよい。

 征司は茶碗蒸しの銀杏を最後まで残し、好きなタイミングで口へ入れた。

 夜九時、まだ眠くなかったが、照明を落とした。

 糊のきいたシーツへ潜ると、知らない洗剤の清い匂いがした。携帯は枕元ではなく、机の引き出しへ入れた。

 街の音は硝子越しに小さく、冷蔵庫の低い音だけが部屋へ残った。

 翌朝、目覚ましをかけなかったのに六時半に目が覚めた。

 カーテンを開けると、同じ街が朝の薄い青に包まれている。備えつけの珈琲を淹れ、窓辺で飲んだ。

 チェックアウトまで、あと三時間ある。

 征司は本を開いたが、二頁で閉じた。休日を有効に使うためではなく、ただ椅子へ座るためにここへ来たのだと思い出した。

 帰宅すると、自分の部屋は何も変わっていなかった。

 それでもコートにはホテルの石鹸と珈琲の香りが残り、いつものソファが少し新しく見えた。二駅先へ泊まっただけの休日が、自宅へ帰る距離まで丁寧に作ってくれていた。