午前六時の声

依都の故郷には、朝六時だけ放送する小さな地域ラジオがある。

開局二十周年の記念番組に、町を離れた人の声を集めたい。そう書かれた招待メールが届いた。録音は電話で一回、質問は「帰りたい景色は何ですか」だけだという。

依都は返事を保留した。

帰りたい景色、と問われれば、夏の堤防や冬の商店街を答えられる。けれど本当に帰りたいのは景色なのか。東京の部屋を更新せず、故郷の短期住宅へ移る申込書も、机の引き出しに入っている。

二十九歳になる月、依都は「一度くらい戻ってみよう」と思った。その一度が、観光でも敗走でもない言葉を探せないまま、締切だけが近づいた。

録音当日、ラジオ局から電話が来た。依都は机の上に二台の時計を置いていた。東京の時刻を示すデジタル時計と、故郷の旧駅舎で買った針の時計。時刻は同じなのに、秒の進み方が違って聞こえる。

「帰りたい景色は何ですか」

依都は用意した答えを読もうとした。〈川霧の向こうから朝日が昇る景色です〉。きれいで、嘘ではない。だが、その景色を毎朝見れば飽きるだろう。雨なら見えず、寝坊すれば終わっている。

「景色じゃなくてもいいですか」と聞いた。

相手は少し笑い、「もちろん」と言った。

依都は、朝六時の放送が終わったあとに訪れる静けさだと答えた。音が消えて、町が一度だけ息を止めるような時間。子どものころは嫌いだったのに、今はその空白を思い出す、と話した。

電話を切ると、録音済み音声がメールで届いた。よそ行きの標準語と、途中で混じった故郷の語尾。二つの声が一つのファイルに入っていた。

再生すると、質問の前に依都が小さく息を吸う音まで残っていた。放送では切られる部分かもしれない。依都は編集を頼まなかった。言葉になる前のためらいも、今の自分の声だった。

依都は短期住宅の申込書を取り出し、滞在期間を六か月ではなく二か月と書いた。ラジオの放送期間と同じ長さだった。

帰れば静けさを好きでいられなくなるかもしれない。それでも、録音の中の声を理想のまま保存するより、二か月ぶん使い古すことを選んだ。

申込書を封じ、午前六時に鳴るよう二台の時計を合わせた。