午前四時の拍手

地下ライブハウス〈MOTH〉が閉店する日の午前四時、亡くなった歌手・鵠沼ネネのアカウントから一曲が投稿された。

『NO CLAP』。

録音場所は、火災前のMOTH。

元清掃員の竹生柚紀は、取り壊し前の空っぽの客席で再生した。ネネが死んでから、壁のポスターも酒瓶も片づけられ、音だけが抜け殻のように残っている。隣には店主の黒江卓と、事故を調べ直す記者がいる。

イントロは、冷蔵庫の唸りと非常灯の電流音。ネネは無人のステージで、低いベースに合わせて靴底を鳴らす。

「拍手はいらない」

彼女はいつもそう言った。歌い終わっても余韻が消えるまで手を叩くな、と。客は気取った演出だと思っていたが、柚紀だけは、ネネが小さな音を拾うためだと知っていた。

ネネは最後のリハーサル中、漏電したマイクに触れて死んだ。前日、売上の抜き取りを告発すると黒江に伝えていたが、その話は事故報告書から消えた。黒江は閉店作業で外にいたと証言し、古い設備の事故として処理された。

Aメロの奥で、グラスが一度鳴る。椅子が軋む。誰もいないはずの客席に、誰かがいる。

「拍手はいらない。まだ音が残ってる」

サビが終わり、ネネは長く息を吐いた。

画面の再生バーはそこで終わったように見えた。三秒の無音を、誰も声を出さずに待つ。

その直後、乾いた拍手が一回だけ響く。パン、という皮膚の音に、硬い金属音が重なった。

柚紀は黒江の右手を見た。太い銀の指輪。彼は上機嫌になると、一度だけ手を打つ癖があり、そのたび指輪が左手の腕時計に当たった。

黒江が笑う。

「似た音はいくらでもある」

再生画面に、最後の波形が拡大される。金属音の後、ネネの声が小さく入っていた。

「拍手はいらない。指輪が鳴るから」

黒江の笑みが消えた。

最後の一音は、記者が机に置いた別の録音機だった。そこには今、同じ指輪が椅子の金具に触れた音が保存されている。

ネネの言葉は観客への美学ではなかった。

自分を事故に見せかけた唯一の観客へ、音を残すなと皮肉る警告だった。