右手に残る鍵
羽澄の鍵束には、三本の鍵があった。自分の部屋、実家、別れた恋人の部屋。最後の一本は返す機会を逃したまま、半年も銀色の輪にぶら下がっている。相手はもう新しい部屋へ移ったと共通の友人から聞いた。それでも羽澄は、返却の連絡だけを下書きに残していた。
使わない鍵ほど、手の中でよく鳴った。鍵につけた青いテープは、二人でホームセンターへ行った日に選んだ色だった。剥がせば済むのに、その端さえ触れずにいた。朝、鍵束を掴むたび、過去を一緒に連れ出しているようだった。帰宅のたびに指へ当たり、連絡しない理由と、まだ捨てない理由を同時に思い出させた。
隣室のニノはジョージアから来たワイン商で、右腕を骨折していた。ある朝、片手で自室の鍵を開けられず、羽澄が手伝うことになった。ニノは羽澄の鍵束を見て言った。
「三つの家に帰る人ですか?」
「一つは実家で、一つは……もう帰らない家です」
「では、どれが今日の鍵?」
羽澄が黙ると、ニノはギプスの指で金具を示した。
「明日、帰らない鍵を一つだけ輪から外す。捨てなくていい。ポケットに入れなくていい場所へ」
「それで何か変わりますか」
ニノは答えず、自分の鍵を左手で持ち直した。
その夜、羽澄は机に鍵束を置いた。恋人の部屋の鍵には、青いテープが巻かれている。返却を口実に会えるかもしれない。相手から連絡が来たとき必要かもしれない。そんな「かもしれない」を、毎朝持ち歩いていた。
翌朝、出勤時刻が迫っても、羽澄は金具を開けられなかった。爪が滑り、三本が小さく鳴る。諦めて全部持って行こうとしたとき、廊下でニノが左手だけで靴紐を結んでいる音がした。
羽澄は引き出しからクリップを取り出し、金具の隙間へ差し込んだ。青い鍵が外れる。捨てる代わりに、封筒へ入れ、相手の住所を書く。今日送るかどうかまでは決めなかった。
鍵束を右手に握る。二本だけでも、重さはほとんど変わらない。それなのに音が違った。
羽澄は封筒を机の上へ残し、今日帰る部屋と実家の鍵だけを持って、玄関の扉を閉めた。