否定疑問のはい
笠松壱成は、質問が終わるより早く「はい」と答えた。
宮前時雨も続けて「いいえ」と言う。
直後、時雨の足元だけが赤く光った。
二人の前には、割れた展示ケースと一枚の盗難カード。壁の規則は一つ。
〈「あなたは鍵を盗んでいないのですか」という質問へ、『はい』か『いいえ』で答えよ。虚偽回答者を脱落させ、真実回答者を解放する〉
二人とも鍵を盗んでいない。監視映像にも、展示ケースへ近づく二人の姿はない。鍵は最初から主催者のポケットにあり、否定疑問そのものが返事の向きを狂わせる罠だった。
時雨は「盗んでいないのですか」と聞かれ、英語の“Didn’t you steal it?”に対するつもりで「いいえ、盗んでいない」と考えた。だが日本語の「はい」は質問文の内容に同意し、「いいえ」は否定する返事として扱われる。
「盗んでいないのですか」
「はい」なら、「はい、盗んでいません」。真実。
「いいえ」なら、「いいえ、盗んでいます」。虚偽。
『会話では逆の用法もあります』
主催者が慌てて言う。
壱成は壁の小さな注意書きを指した。そこには「回答は質問命題への同意・不同意として機械解析する」とある。番組の海外配信向けに、判定を形式化した仕様だった。
「自然な会話の曖昧さを消したのは、あなたたちだ」
時雨の首輪が作動しようとする。壱成は展示ケースの破片を拾い、赤外線送信部へ反射させた。解除信号が時雨の首輪にも届き、針が止まる。
〈真実回答者、笠松壱成〉
扉が開いた。
時雨は膝をついたまま、苦笑する。
「私は正直に答えたつもりだった」
「だから、これは人間の嘘を裁く装置じゃない。文法の向きを裁く装置だ」
主催者は「はい」と「いいえ」だけなら簡単だと思った。だが短い返事ほど、何へ同意しているのかを見失いやすい。
壱成は時雨を支えて立たせる。
「嘘をつけない部屋で必要なのは、正直さだけじゃない。何を肯定したのか、最後まで見失わないことだ」