吸血伯爵の白いポタージュ
大聖堂前の食堂《白夜》へ、夜明け直前、一人の貴族が入ってきた。店主アデルは、客の影が蝋燭の反対側へ伸びているのを見ても何も言わなかった。
男は吸血伯爵ラキュス。人間との休戦条約を結ぶ代表だが、誓約のため三日間、一滴の血も口にしていない。正午の署名式まで耐えれば和平は成立する。だが指先は紙のように白く、署名用の羽ペンさえ持てないほど震えていた。
「血に見えるものも駄目だ。赤い染み一つで、相手は誓約違反だと騒ぐ」
他の店では肉汁を勧められ、彼はすべて断ったという。空腹より、相手に恐れられることのほうが苦しかった。
アデルは白い椀を一つ置いた。《月豆のポタージュ》。夜にだけ実る白い豆を潰し、乳と根菜で煮たものだ。表面には油の輪すら浮かばず、湯気も淡い。
「血ではありません。牙を使わず飲めます」
ラキュスは警戒しながら一口含んだ。なめらかな豆の甘みの奥に、土と鉄に似た濃さがある。二口目で頬へ薄く色が戻り、三口目には、卓を押さえていた手の震えが弱まった。
月豆は夜露から命の力を蓄える。人を襲う力ではなく、立っているための力だけをくれる。アデルは効能を語らず、空になる椀を見守った。
ラキュスは最後の一滴を飲み、試すように羽ペンを取った。食堂の紙ナプキンへ、自分の名を一息で書く。線は揺れず、インクも滲まない。
「書ける」
その一言に、百年の戦を終わらせる重みがあった。
彼は鏡で口元を確認した。牙にも襟にも赤いものはない。あるのは、温かな湯気で少し曇った眼鏡だけだった。
「人間は、私が血を我慢している姿を和平と呼ぶ。だが我慢だけでは、いつか憎しみに変わる」
「食べられるものがあるなら、食卓には座れます」
ラキュスは静かに笑い、伯爵家の白金貨を置いた。
「同じものを大鍋で。署名後の会食に出してほしい。私だけ別の杯を持つのは、今日で終わりにする」
正午、大聖堂の鐘が十二回鳴った。十三回目の代わりに《白夜》の扉の鈴が鳴り、条約印のついた空の大鍋が運び込まれた。蓋の裏には、伯爵の揺れない署名があった。