壁紙の裏の雨
退去立会いの午後、藍沢汐里は壁紙の黒い斑点へ指を触れなかった。
築七年の賃貸住宅。管理会社の点検票には〈換気不足によるカビ・入居者負担〉と印字されている。見積額は十八万円。同行した後輩は、入居者へ署名を求める欄を開いていた。
「毎日換気していました。除湿機も買って、管理会社へ二度連絡しました」
入居者は、家電量販店の領収書と、以前送った壁の写真を差し出しながら疲れた声で言った。退去費用を払えば、新居の敷金が足りなくなるという。汐里は窓の結露ではなく、壁の上端だけが濃いことに気づく。水分計を当てると、天井に近いほど数値が上がった。家具の置かれていた床際はむしろ乾いている。換気不足なら広がるはずの場所と、染みの形が逆だった。外は晴れているのに、壁紙の裏から冷たい湿気が残っている。
汐里は点検票を閉じ、共用廊下側の外壁を見た。雨樋の継ぎ目の下に、細い筋がある。前週の大雨が、壁の中へ回った可能性が高い。
「署名はまだいただきません。原因を調べてからにします」
上司へ連絡すると、退去日が延びるから写真だけで処理しろと言われた。オーナー負担にすれば、管理実績へ傷がつくという。
汐里は後輩へ、〈カビ〉ではなく〈漏水疑い〉と記録させた。壁紙を一部開ける許可を取り、下地の変色と雨樋位置を同じ写真へ収める。過去の修繕履歴には、上階でも同じ筋の補修があった。
「入居者の暮らし方を原因にする前に、建物の方を見よう」
調査会社の速報では、雨樋の継ぎ目からの浸水が確認された。費用負担は保留になり、入居者の署名欄には斜線が引かれたまま、鍵は予定通り返却された。汐里は、退去点検で水分計を使う位置と、上端から広がる染みを設備確認へ回す手順を残した。
上司は電話の最後に、転職を考え直せと言った。来月から汐里は、住まいを失いかけた人を支援する団体で、物件調整を担当する。営業成績はつかず、扱う部屋もきれいなものばかりではない。
それでも、壁紙の表だけ見て人を判断しない仕事がしたかった。
事務所へ戻る車内で、転職先から届いた初回同行日の候補を開く。汐里は最も早い翌月一日を選び、参加を確定した。
窓に残った雨の跡が、今度は責任の向きを教えていた。