壁紙は証言しない
平賀紬の部屋では、夜になると壁紙が別れ話を始めた。
――重いんだよ。
――私ばかり我慢してる。
――出ていくなら勝手にしろ。
歴代の住人が口にした言葉らしい。最近はそこへ、紬と同居中の恋人の声まで混じるようになった。
――お前を好きになる人なんて、ほかにいない。
〈彩坂不動産〉の彩坂臣は、派手な花柄のネクタイを締め、腰へ壁紙用のへらを差していた。部屋へ入るなり言う。
「壁は、味方をしません」
「分かっています。だから、客観的に聞きたいんです」
紬は恋人と別れるべきか迷っていた。怒鳴られることはあるが、手を上げられたことはない。紬も言い返す。壁紙には自分の声も残っていた。
――もう話したくない。
――あなたといると息が詰まる。
「私だってひどいですよね」
「壁は、言葉しか記録しません」
臣は花柄のネクタイを肩へ払ってしゃがみ、玄関脇の壁へへらを差し込んだ。壁紙の下から、半月形の傷が現れた。扉を内側から塞いだ家具の跡だった。
「これは?」
「出ていこうとしたとき、棚を動かされました」
「壁は、その音を証言しましたか」
「いいえ」
洗面所の壁紙には、紬の泣き声が残っている。だが、その前に携帯電話を取り上げられた沈黙はない。台所には恋人の謝罪が残っている。けれど翌朝、何事もなかったように鍵を隠されたことは語られない。
「壁の記録だけなら、どちらも悪いように聞こえます」
「記録が中立でも、状況まで公平とは限りません」
臣の声はそっけなかった。けれど彼は退去を急かさず、まず紬の通帳、身分証、仕事用端末を花柄の布袋へ入れた。新しい鍵の部屋を三日だけ無償で確保し、恋人へ話す場所には不動産会社の応接室を指定した。
「一人で説明できると思います」
「できることと、一人でやるべきことは別です」
紬はその日のうちに必要な荷物を運び出した。翌日、社員二人がいる応接室で別れを告げた。恋人は最初こそ声を荒らげたが、花柄のネクタイで正面に座る臣を見ると、鍵を机へ置いた。
最後の確認で部屋へ戻ると、壁紙が小さく言った。
――出ていくなら勝手にしろ。
臣はへらを入れ、その一枚だけを剥がした。下から、何も書かれていない白い壁が現れる。
「壁は、味方をしません」
「知っています」
「ですから」
臣は剥がした紙を丸め、花柄のネクタイをきっちり締め直した。
「壁の代わりに、今日は私たちがあなたの側へ立ちます」