夜行バスの星妖精
夜行バスが高速道路へ入ったあと、運転席の計器の上に、小さな星が落ちてきた。
人の形をしているが、体は淡く光り、片方の腕が消えかけている。
「町の明かりが多すぎて、空への道を見失った」
星の妖精は言った。
「誰かが恋しい場所の名を一つ口にするたび、光が一つ戻る」
運転手は困った。
乗客は皆眠っている。
前方には濃い霧が出始めていた。
最初の休憩所で、運転手は事情を説明せず、
「この先、行きたい場所ではなく、戻りたい場所があれば教えてください」
と車内放送した。
反応はなかった。
やがて後ろの席から、
「祖母の台所」
と声がした。
妖精の指先が一つ光った。
次に、
「大学の屋上」
「閉店した映画館」
「子どもが小さかった頃の団地」
乗客が一人ずつ、地名にならない場所を挙げた。
妖精の体へ星が戻り、フロントガラスの霧が少し明るく見えた。
運転手自身にも、恋しい場所があった。
離婚後、娘が暮らす町。
この路線の終点から電車で一時間だが、十年訪ねていない。
娘から、
「会うなら前もって連絡して」
と言われたのを、拒絶と受け取り、そのままにした。
妖精が運転席の端へ座った。
「おぬしの場所は」
「運転中だ」
「道を知る者ほど、迷った名を言わぬ」
運転手はマイクを取った。
「終点の先にある、小さな駅前」
詳しくは言わなかった。
それでも妖精の消えた腕が戻った。
霧の区間を抜けると、東の空が白み始めた。
妖精は窓へ近づいたが、まだ飛ばない。
「恋しい場所へ行かなければ、名を言ったことにならないのか」
運転手が尋ねる。
「行けぬ場所もある。名を言えば、今いる道から消えなくなる」
終点に着き、乗客は降りた。
妖精は朝の空へ昇り、小さな星として見えなくなった。
運転手は勤務を終え、娘へメッセージを送った。
「来月、駅前で一時間だけ会えますか。無理なら別の日を教えてください」
返事はすぐ来なかった。
運転手は始発の電車へ乗らず、家へ帰った。
三日後、
「一時間なら。勝手に家まで来ないで」
と返信が来た。
約束の日、運転手は駅前で待った。
娘は時間どおり現れ、最初に、
「ここ、変わったでしょう」
と言った。
恋しい場所は昔のままではなかった。
けれど名前を口にしたことで、そこへ続く現在の道を、もう一度たどれた。