夢墨を一滴

ジュリオの工房では、眠った人の夢が墨になる。

枕元に置いた空瓶が、朝になると淡い霧を一滴だけ集める。工房の硝子羽根がその色を読み、鉄胆液、煤、星砂を自動で混ぜる。楽しい夢は青墨、忘れたい夢は薄墨、誰かに伝えたい夢は乾いても消えない黒墨になる。書記たちは必要な瓶を注文し、代金は印税箱へ届く。

ジュリオは帝国文書院で、夢を見る時間を失った書記だった。黒い制服の肘は机に擦れて光り、右手の中指には筆だこが二重に盛り上がっている。条約、判決、命令書。夜半を越えても文面が一字変われば呼び戻された。退職後も通信紙には『緊急清書』『署名式延期不可』が未読で重なっている。

ある朝、印税箱から紙片が滑り出た。

《夢墨七瓶使用。製法権料を入金しました》

その額で一か月、静かに暮らせる。ジュリオは紙片を本の栞にした。数字より、その紙に何も書き足さなくてよいことが心地よかった。

昼前、通信紙の文字が勝手に動いた。

『今夜、隣国との協定を清書する。誤字が許されない。お前の筆を貸せ』

文書院長の癖のある文字だった。

ジュリオは新しい黒墨の瓶を見た。中には昨夜、自分が見た海の夢が溶けている。

『筆は貸しません。製法権なら正規の窓口から購入できます』

『国家の一大事だ』

『国家が一人の徹夜でしか保てないなら、先に仕組みを直してください』

『書記の誇りはないのか』

『あります。だから、自分の名前まで擦り減らすのをやめました』

返信し、通信紙を暖炉へ入れた。文字は一瞬だけ赤くなり、灰になった。

文書院では、白紙は怠慢の証拠だった。机の上に余白があれば、次の命令書が置かれた。今の工房では、空の瓶も立派な在庫だ。夢が集まらない朝は墨を作らず、眠れなかった客には代金を返す。無理に夢を搾り取る処方は置かなかった。その方針を笑った書記たちも、やがて青墨を買いに来た。自分の夢を忘れないためだという。ジュリオは彼らの名を尋ねず、仕事の愚痴も聞かず、瓶だけを静かに渡した。

ジュリオは机に白紙を一枚置いたが、何も書かなかった。海色の墨瓶を眺めながら長椅子へ横になり、今夜の夢の続きを見るため、昼のうちから目を閉じた。